アメリカにおける普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 08:52 UTC 版)
アメリカにおいては一部の州において高等学校でダーウィンの進化論を教えることが禁止されている一方、進化論から派生した環境決定論を単純化した、通俗的な環境決定論が幅広い支持を得ている。背景には、エレン・センプルとエルズワース・ハンティントンの著書が広く読者に受け入れられたことがある。 センプルは、ラッツェルの著書『人類地理学』(Anthropogeographie)に影響を受けライプツィヒ大学に留学、ラッツェルの講義を受講した。その後、1911年に『環境と人間 ― ラッツェルの人類地理学の体系に基づく』(原題:Influences of Geographic Environment: On the Basis of Ratzel's System of Anthropo-Geography)、1913年に『アメリカの歴史とその地理的状況』(American History and Its Geographic Conditions)を執筆した。前者は学問的には厳密ではなかったが環境の文明への影響を平易な文章で記述し、後者はアメリカ合衆国の歴史における過酷な自然への適応と競争による淘汰を正当化したため、一般の読者に受け入れられた。『環境と人間』は「人間は地表の産物である。」という文章から始まり、「ラッツェルの人類地理学の体系に基づく」と銘打っていたことから、ラッツェルを環境決定論者として規定する要因の一つとなったのである。 ハンティントンは、中央アジアや中近東、中央アメリカなど世界中を旅行し、気候が文明に与える影響に関心を持ったことから1915年に『気候と文明』(原題:Civilization and Climate)を著した。センプルの著書同様、学問的厳密性に欠けていたが、過酷な条件下で民族が環境を克服しようとする力が文明を生み出すと説き、支持を集めた。さらに、イギリスの歴史家・アーノルド・J・トインビーは「挑戦と応答」という概念の中に、この説を取り入れた。 アメリカでは、他国の地理学界が環境決定論を脱していた1920年代においても依然として環境決定論が支配的で、1930年代までアメリカ地理学の主流であり続けた。当時のアメリカの地理学界は人間の生業から人間の肉体・精神に至るまで環境が能動的に影響を及ぼす因子と考えられていた。これに立ち向かったのがカリフォルニア大学バークレー校教授のカール・O・サウアーであり、人間が文化を通して地表面に能動的に働きかけると主張した。農業地理学の分野からも、1930年代になると環境決定論に反発する声が上がり、自然環境以外の諸要因から農業活動の差異を探る動きが始まった。
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