ものまね四天王時代
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「ものまね王座決定戦」の記事における「ものまね四天王時代」の解説
1987年に木村忠寛がプロデューサーに就任し、同年3月放送の『第2回爆笑!スターものまね王座決定戦』から、それまで司会を務めたあのねのねに代わり、新たな司会者に所ジョージ・榊原郁恵が就任した(1988年4月の『第20回オールスターものまね王座決定戦』からはそれまで桑野信義とタッグを組み出場者側だった田代まさしも加わる)。更に審査員に淡谷のり子を加えてからは、お笑い、パロディ芸としてのものまね(無論お笑い要素のない歌まねを排除したわけではなく並行)に方針転換する。 コロッケ・清水アキラ・栗田貫一並びにビジーフォー(グッチ裕三・モト冬樹)による、いわゆるものまね四天王を前面に出す番組作りに衣替えし、ダチョウ倶楽部や笑福亭笑瓶、松村邦洋、ピンクの電話のような、一発芸に終始したネタも頻繁化され、1990年代にものまねブームを巻き起こした。 1986年までは3ブロック制で90分での放送だったが、1987年の90分での放送が2ブロック制に改める。1987年から1998年までは年に3回(『オールスター』が秋、『爆笑!スター』が春と11月頃に放送)この2番組が並行して行われたが、1997年・1998年の11月頃に放送された分はそれまでの優勝者・決勝進出者に常連組が揃ったグランドチャンピオン大会になった。 1989年に入ると、春の改編期に『爆笑!スター』、秋の改編期に『オールスター』を放送するようになり、この年の10月に放送された第21回以降の『オールスター』から3ブロック制に変更され、翌1990年4月にも第7回以降、春の改編期に放送する『爆笑!スター』も3ブロック制に変更された。また1989年3月5日には、『花王名人劇場』(関西テレビ制作)でも『ものまね刑事』に四天王が主演したドラマが放送された(ナレーターは当時『王座決定戦』司会の一人だった所ジョージ)。 1989年12月の『爆笑!スター』からは、審査員のネームプレートが手書き体からナールフォルト体に変更された。また、それとは別に『火曜ワイドスペシャル』や『金曜おもしろバラエティ』→『金曜ファミリーランド』枠で、年数回、特別版や番組の舞台裏ドキュメントを放送した。 1991年にはオリジナルビデオ作品にも進出し、『ものまね四天王 オリジナルムービー ひょうたん』を発表した。この『ひょうたん』は、1992年2月21日に同局で放送された『大公開!最初で最後!ものまね四天王ドラマスペシャル!!』(『金曜ファミリーランド』枠)内で放送された。 しかし、プロデューサーの木村と四天王の一角・コロッケの対立が発端になり、コロッケは1992年3月31日放送分の『第11回爆笑!スター』を最後に降板した。さらに、コロッケを含め、研ナオコや岩本恭生、篠塚満由美らが、日本テレビでスタートした『史上最高そっくり大賞』→『ものまねバトル大賞』に移った。 一方で清水アキラ、栗田貫一、ダチョウ倶楽部、松居直美、松村邦洋など、当番組に残留した出演者も多く、この時期では、かつて計25回も放送され、フジテレビを代表する特番だった『オールスター紅白大運動会』を、当番組の出演者メインで復活し5回放送(1994年 - 1996年)、また1997年と1998年には『オールスター爆笑ものまね紅白歌合戦!!』と並行した正月特番『初笑い!爆笑ものまね新年会』も放送された。 やがてビジーフォーが降板し、『ものまねバトル』より視聴率が下がるなど番組の弱体化が進み、1999年以降は1回減らした年2回の編成となる。番組の司会の顔であった榊原も2000年4月7日放送の『第25回爆笑!スター』で降板、同時に司会者全員の赤いブレザーや、1980年10月28日放送回から続いてきた100点満点採点方式もこの回で終了した。 2000年10月3日放送の第32回でテコ入れをして下記のように多数の演出が大幅なリニューアルし、プロデューサーも木村から水口昌彦に交代(この回は司会に今田耕司、東野幸治、篠原ともえ。基本的に生バンドであった演奏も事前収録の効果音に変わった。これ以降ネタの伴奏は生バンドによる事前収録となる)するが、視聴率が番組最低の13%となり、この回を最後に打ち切られた。 司会陣も所・田代は1990年12月の『第8回爆笑!スター』で降板し、1991年4月の『第9回爆笑!スター』からは研ナオコ(1994年11月の『第16回爆笑!スター』まで)に交代。その研も上記の通り日本テレビのものまね番組の司会に移り、井上順(1995年4月の『第17回爆笑!スター』から)の復帰や松本伊代(1996年4月『第19回爆笑!スター』から)の審査員からの移行など、司会者が目紛るしく変わることもあった。 司会者の人数も3人から、1996年4月の『第19回爆笑!スター』からは4人に、1998年10月の『第30回オールスター』~1999年10月の『第31回オールスター』には5人までに増えた(1998年11月の「グランドチャンピオン大会」と2000年4月の『第25回爆笑!スター』は4人に戻る)。 トーナメント制も、1997年10月の『第29回オールスター』から2000年4月の『第25回爆笑!スター』まで、春・秋の改編期の『爆笑!スター』、『オールスター』が4ブロック32組となる。複数名のユニットも作られるようになり、最大で50人を超えたこともあった。 番組のセットに関しては、中央が従来のトーナメント表を表したセットだったが、周りが電飾中心のセットになり、出演者席も中央のトーナメント表の所から両側に座ることになった。また、トーナメント表もコンピュータ処理になり、表示されたが1999年10月 - 2000年4月の回はなかった。審査員席の後ろも1997年10月(お台場新社屋での収録初回)からは観客に埋められ、1998年4月 - 1999年4月はものまねのターゲットとなった出演者とグラビアアイドルに埋められたが、1999年10月第31回オールスター - 2000年4月の第25回爆笑!スター回は周りが花に埋められた。 1997年4月の第21回爆笑!スターからテロップが乱発・カラフル化するようになる。放送送信が河田町からお台場へ移転したことも背景にあると思われ、司会者・審査員の名前を表示する際に3倍ほどの特大サイズの表示になった(このデザインは2000年4月の第25回爆笑スターまで使用)。ただし、引き続き針すなおのイラストと、ものまね・歌手名のテロップ表記はオリジナルの手書き調を引き続き使用していた。
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