村上城跡とは? わかりやすく解説

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村上城跡

名称: 村上城跡
ふりがな むらかみじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 新潟県
市区町村 村上市大字村上羽黒町二之町三之町新町大字本町
管理団体
指定年月日 1993.06.08(平成5.06.08)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成14.12.19
解説文: 村上城中世近世通じて北地方(越後北部)における中心的な役割果たした城で、標高135メートル臥牛山築かれ平山城である。
 中世における揚北は、城氏滅亡の後に入った鎌倉御家人勢力伸ばしていた。奥山荘中条氏黒川氏加地荘の加地氏などがそれで、揚北地最北岩船郡小泉荘)には秩父平氏本庄氏入った。彼らは南北朝期以降にも、守護上杉氏影響をあまり受けず、独自の政治圏である「揚北」を形成し、「揚北衆」と呼ばれた
 小泉荘入った本庄氏南北朝内乱期には同族色部氏合戦し、敗れて「(本庄)持長城」が落城していることが色部文書等により分かる。ただし、当時本庄氏の城については未詳で、この城が村上城を指す可能性もあるが、伝承をもとに、猿沢城(朝日村所在)であるとする説もある。室町時代以降本庄氏は他の揚北衆同じく守護上杉氏)の立場鮮明にし、延徳元年(1489)、明応2年(1493)、永正4年1507)と守護及び守護方の武将数次わたって合戦したが、永正4年9月本庄城は火を放たれ落城した。この本庄城臥牛山にある村上城を指すものである
 天文8年(1539)、本庄房長伊達中条連合軍の攻撃を受け本庄城落城天文20年(1551)になって長の子繁長が本庄城取り戻す。繁長は一時上杉氏に従うが、永禄11年(1568)3月武田信玄誘い応じ反旗を翻して、上杉輝虎の軍に包囲された。繁長は、「南方深田洋々として湖水如し、西は大海原、特に大河は郭をめぐり、地利無双城地たり」(上杉年譜)とある堅固な地利頼んでよく凌いだ結局孤立し、翌永禄12年(1569)2月米沢伊達氏会津芦名氏仲介輝虎降り嫡子人質として春日山送った本庄氏治世天正18年(1590)末、豊臣秀吉が繁長を改易するまで続いた
 慶長2年(1597)の「瀬波絵図」には「村上ようがい」と城下の街が画かれており、山上多く建物のあったことが分かる。 慶長3年(1598)、上杉氏会津移封に伴い村上頼勝が9万石転封された。しかし、豊臣恩顧村上家間もなく取り潰され元和4年(1618)堀直竒10万石で村上城に入封となった
 堀氏村上城縄張り作事進め、ここに近世城郭としての村上城完成した
 寛永19年(1642)、堀家嗣子がなく絶家となり、正保元年(1644)本多忠義入城した正保2年(1645)の城郭絵図画かれ村上城はこの時のもので、本丸には3層天守閣の外、渡櫓多門二の丸には5か所のなどが画かれ、この絵図によって往時の姿を偲ぶことができる。
 この後慶安元年(1648)、松平直矩結城松平)が15万石入城以降榊原政倫本多忠孝松平輝貞間部詮房の各家が続き享保5年1720内藤弌信5万石で入って以降明治維新まで8代150年近く続いた
 遺構は、山上本丸天守台二の丸乾櫓、巽埋門、出、平等の跡、三の丸月見櫓、靱千貫丸等の跡が残り石垣は高さ8メートル近く山頂各部くまなく巡らされている。山下には居屋敷一文字門、[[下渡]げと]門等の跡が、藤基神社境内には外郭土塁残っており、石垣使われている。また臥牛山東面には本庄氏時代戦国遺構である腰ぐるわや竪堀土塁井戸跡等も良好に残っている。
 このように村上城は中近世通じて北地方の中心であった城であり、今日に残る遺構もそれにふさわしい壮大なるものである。ことに、中世遺構近世遺構渾然一体として残る姿は貴重なのである。ここに村上城のうち臥牛山全体と、山麓良好に残る遺構部分史跡指定し、その保存を図るものである



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