かつての特産品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 14:40 UTC 版)
藍 15世紀ごろから藍の栽培と藍染めが由良川沿いを中心に盛んに行われており、1496年、藍染めの布を荘園に納めたとされる記録が残っている。江戸時代には藍染めをする一般家庭の件数は1500近くもあったともいわれ、町屋360軒のうち25軒が紺屋であったとされる。これらのことから藍染め品は当時の福知山市の特産品であったことがうかがえる。 しかしやがて、輸入品や化学染料に押され全国の藍の産地が消え行く中、京都の最後の藍の産地となっていた福知山も大正の時代とともに姿を消した。現在再び藍染めのよさが見直され、藍の栽培と藍染めを復活させる活動がなされている。市内の一部の小学校などでは総合的な学習の一環として、藍染め体験をさせる学校も存在する。 生糸 福知山は度重なる由良川の氾濫に対して桑は洪水に強かったことや、由良川のph値が製糸に適した水質であった ことなどから、古くから養蚕業が栄えた。福知山市を含む丹波地方の養蚕業は千年以上も昔から行われていたとも言われ、昭和初期ごろに全盛期を迎えた。1928年(昭和3年)にはグンゼの事務所が、翌年には工場が置かれ、生産された生糸は丹後ちりめんや西陣織の原材料としてだけでなく海外への輸出用としても生産された。 しかし第二次世界大戦になると食糧不足解消のため、桑畑をサツマイモ畑に転作したことや、糸そのものの価格の低下、ナイロンなどの化学繊維の出現や養蚕農家の後継者不足と高齢化などの理由によって養蚕業は衰退し、ほとんどの養蚕農家や製糸業者は廃業に追い込まれた。生き残った業者も業界の激しい値下げ競争により、生産拠点を人件費が安い海外へ移さざるを得なくなり、大手のグンゼも2001年9月に福知山から撤退 するなど、特産品であった生糸も現在は養蚕農家を市内大江町に一軒だけ残すのみとなった。藍ほどではないが福知山と蚕の歴史を伝えるため、藍と同じく一部の学校では総合的な学習の一環として、蚕の飼育やビデオ鑑賞でその生態などを学ばせる学校もある。 丹波うるし 福知山市夜久野地方では漆の名産地としても栄えた。奈良時代初期には既に漆掻き(漆の採取)が行われていたとされ、明治時代には福知山とその周辺の地域で漆掻きをする人が500人近くいた といわれている。1907年(明治40年)発行の、全国の漆の産地30箇所を記した書物「実用漆工術」には、丹波(福知山)の漆は一番目に書かれており その歴史の深さを物語っている。 しかし現在では漆の98%が中国産の輸入品へと移り変わり、日本国内の漆の産地はほんのわずかしか残されていないものの、福知山ではその伝統と歴史が細々と受け継がれている。 丹後和紙 福知山市では和紙の原料となる良質のコウゾがよく取れたことに加え、上記の漆産業も盛んであったことから、主に漆をこすために使用される和紙の名産地とも栄えた。特に明治時代から昭和初期にかけては、書道用・障子用の和紙として、また原材料のコウゾとあわせて他府県に大量に販売された。 京都府無形文化遺産にも指定されており、当時の和紙すきを行う所は200戸余りもあったが 漆産業の衰退などの理由により衰退を招き、現在では大江町和紙伝承館などの限られた施設でのみ見ることができる。
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