かつての池田中学校
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 18:18 UTC 版)
「大阪府立池田高等学校」の記事における「かつての池田中学校」の解説
現在の大阪府立池田高等学校につながる旧制大阪府立池田中学校とは学校沿革史上の連続性はないとはいえども、明治時代には池田に別の池田中学校が設置されていた記録が残る。 1878年に大阪府の指示で池田村に郡立池田中学校が設置されたという記録が残るものの、学校のあった場所など詳細は不詳である。このときに設置された池田中学校は1881年には記録から消えている。 1901年には中学校令施行細則により、大阪府は各郡に1校ずつ中学校を整備する方針を固めた。豊能郡では郡役所所在地の池田町に中学校を設置することとなり、1903年に大阪府立池田中学校が開校している。当時の池田中学校の場所は、現在の池田市立池田中学校敷地(北緯34度49分31秒 東経135度25分55秒 / 北緯34.825389度 東経135.432056度 / 34.825389; 135.432056)にあたる。 しかし、この池田中学校は3年後の1906年に廃校となった。日露戦争後の財政難に陥っていた大阪府が、大阪市内3校の過密解消を目的とする新設校(今宮中学校。現在の大阪府立今宮高等学校)の設置および運営にかかる費用を、池田中学校と四條畷中学校(現在の大阪府立四條畷高等学校)のいずれか1校を廃校にして捻出する方策を取ったことによるとされている。 当初は辺鄙な立地にあった四條畷中学校が廃校になるとみられ、四條畷中学校関係者も廃校を見越したような動きをしていた。しかし、一転して池田中学校が廃校となった。別格官幣社である四條畷神社のお膝下に四條畷中学校が立地していたという忠君愛国教育に関連した事情のほかに、生徒の地元比率が高かった四條畷中学校と比べ、兵庫県をはじめ他府県の生徒が過半を占めていた池田中学校の存続に府会が難色を示したこと、さらには、師範学校の誘致で優位に立てるとの池田町による行政判断などが当時の池田中学校が廃校対象として選ばれる要因となったとみられている。 当時の池田中学校は卒業生を出さないまま廃校となり、在校生は茨木中学校(現在の大阪府立茨木高等学校)など他校へ転入している。
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