お好み焼きの誕生と伝播
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:41 UTC 版)
「お好み焼き」の記事における「お好み焼きの誕生と伝播」の解説
大正7年(1918年)3月24日の読売新聞朝刊に「蝦フライ一銭のどんどん焼」と題する記事が掲載されており、記事内では「どんどん焼き」という表現を用いながらも、その屋台の暖簾や品書きには「お好み焼」という表現が使用されている。また柳田国男は、昭和6年(1931年)に刊行された「明治大正史 第四巻 世相篇」において「子供を相手の擔ひ商ひの方でも飴や新粉の細工物は通りこして、御好み焼などといふ一品料理の眞似事が、現に東京だけでも数十人の専門家を生活させて居る」と書いている。 池田弥三郎の「私の食物誌」には「昭和6〜7年(1931〜1932年)ごろに銀座裏のお好み焼き屋が密会所のようになり、風俗上の取り締まりで挙げられた」というエピソードが記録されており、当時のお好み焼き屋は飲食を口実として懇ろの男女に逢瀬の場を提供する、どちらかと言えばいかがわしい業態としても機能していたことが読み取れる。食文化史研究家の岡田哲は、「お好み焼き」は当時の東京の花街において、座敷にしつらえた鉄板で客が自分の「好み」に焼く風流な遊戯料理として誕生したというこの証言に基づいた解釈を紹介しており、日本コナモン協会会長の熊谷真菜も自著にて同じ説を採用している。 田辺聖子は藤本義一との対談の中で、大阪でお好み焼きが知られるようになったのは昭和16〜17年ぐらいからではなかったかと発言している。現存するお好み焼き屋の中で最古とされる店は、浅草の「風流お好み焼 染太郎」で昭和13年(12年という説もあり)の創業であるが、大阪でも同じ時期に「以登屋」(現在は閉店)が開店しており、大阪で初めて客に自由に焼かせる「お好み焼き」を紹介したとされる。以登屋は芸者や花柳界の粋人、船場の旦那衆などを対象とした高級店で、市中の洋食焼きが10銭程度であった時代に1円50銭もしたという。ちなみに大衆店として人気を博した染太郎では、創業当時のお好み焼きの価格は一枚5銭であった。 戦後、「お好み焼き」という言葉は客が自分で焼いて楽しむという原義を離れ、ネギではなくキャベツを用いた粉物料理そのものを指すようになる。キャベツを用いる混ぜ焼き式の「お好み焼き」は近畿地方を中心に戦後急速に浸透し、全国各地で洋食焼き・どんどん焼きからお好み焼きへと料理の名称と調理法が更新されていった。焼き方に関しては現在も戦前のスタイルを残す地域が存在するものの、名称の点ではほぼ全国的に「お好み焼き」に統一されている。お好み焼きは戦後の大阪において、具材やソースの追加、腰掛け式のカウンターテーブルの採用などの変化を経て、本家と言われるほどに発展していく。昭和中葉には、大人が飲食店としての「お好み焼き屋」で座って鉄板を前に焼きながら食べるものと、子どもが「立ち食い」を前提に「新聞紙」に包んだ二つ折りのものをその場で立って食べる、簡便なお好み焼きとが分かれて存在した。 なお、広島は戦前の東京で誕生したお座敷料理のお好み焼きはもちろん、戦後に広まった混ぜ焼き式のお好み焼きの影響も受けなかった地域であるが、どんどん焼きは乗せ焼きが主流であり、どんどん焼きから一銭洋食として伝わり、関西のお好み焼きも広島のお好み焼きも源流は同じである。戦災からの復興過程で1950年ごろに発生した屋台街(後のお好み村)において、鉄板一枚で調理出来ることから、戦前の一銭洋食をベースに独自の変化を遂げ、後に広島風お好み焼きと呼ばれる料理に発展した。
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