『ライン新聞』のジャーナリストとしてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 『ライン新聞』のジャーナリストとしての意味・解説 

『ライン新聞』のジャーナリストとして

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 19:33 UTC 版)

カール・マルクス」の記事における「『ライン新聞』のジャーナリストとして」の解説

1841年夏にアーノルト・ルーゲ検閲比較緩やかなザクセン王国王都ドレスデン移住し、そこで『ドイツ年誌(Deutsch Jahrbücher)』を出版したマルクスケッペン通じてルーゲに接近し、この雑誌プロイセン検閲制度批判する論文寄稿したが、ザクセン政府の検閲掲載されなかった。 ザクセンでも検閲強化されはじめたことに絶望したマルクスは、『ドイツ年誌』への寄稿断念し彼の友人何人参加していたライン地方の『ライン新聞ドイツ語版)』に目を転じた。この新聞1841年12月フリードリヒ・ヴィルヘルム4世新検閲令を発し検閲多少緩めたのを好機として1842年1月にダーゴベルト・オッペンハイム(ドイツ語版)やルドルフ・カンプハウゼンライン地方急進派ブルジョワジーバウアーケッペンやルーテンベルクらヘーゲル左派協力して創刊し新聞だった。 同紙を実質的に運営していたのは社会主義者モーゼス・ヘスだったが、彼はヘーゲル左派新人マルクス注目していた。当時マルクス社会主義者ではなかったから「私は社会主義哲学には何の関心もなく、あなたの著作読んではいません」とヘス伝えていたものの、それでもヘスマルクス高く評価し、「マルクス博士は、まだ24歳なのに最も深い哲学知恵を刺すような機知包んでいる。ルソーヴォルテールホルバッハレッシングハイネヘーゲルを溶かし合わせたような人材である」と絶賛していた。 マルクス1842年5月にもボン(後にケルン)へ移住しヘスバウアー推薦で『ライン新聞』に参加し論文寄稿するようになった6月プロイセン王支持する形式をとって無神論記事書いたが、検閲官の目は誤魔化せず、この記事検閲却下された。また8月にも結婚教会儀式反対する記事書いたのが検閲官に却下された。当時新聞記事は無署名であるからマルクス直接目を付けられる事はなかったものの、新聞対する目は厳しくなった。最初1年試用期間だったが、それも終わりに近づいてきた10月当局は『ライン新聞に対して反政府無神論傾向大幅に減少させなければ翌年以降認可出せない旨を通達した。またルーテンベルクを編集長から解任することも併せて求めてきた。マルクス新聞を守るために当局命令に従うべきと主張し、その意見賛同した出資者たちからルーテンベルクに代わる新し編集長任じられた。 このような経緯であったから新編集長マルクスとしては新聞存続させるために穏健路線をとるしかなかった。まず検閲当局に対してこれまでの我々の言葉は、全てフリードリヒ大王御言葉引用することで正当化できるものですが、今後必要に迫られ場合以外は宗教問題取り扱わないお約束いたします」という誓約書提出した実際にマルクスはその誓約守りバウアー派の急進的無神論的な主張抑え続けた(これによりバウアー派との関係が悪くなった)。プロイセン検閲当局も「マルクス編集長になったことで『ライン新聞』は著しく穏健化した」と満足の意を示している。 また7月革命後の1830年代フランスで台頭した社会主義共産主義思想1840年代以降ドイツ輸出されてきていたが、当時マルクス共産主義者ではなく、あくまで自由主義者民主主義者だったため、編集長就任の際に書いた論説の中で「『ライン新聞』は既存共産主義には実現性認めず批判加えていく」という方針示した。また「持たざる者中産階級衝突平和的に解決し得ることを確信している」とも表明した一方で法律節度範囲内での反封建主義闘争止めなかった。ライン県議会制定され木材窃盗取締法を批判したり、ライン県(ドイツ語版知事エドゥアルト・フォン・シャーパー(ドイツ語版)の方針公然と反対するなどした。 だがこの態度災いとなった検閲緩めたばかりに自由主義新聞増えすぎたと後悔していたプロイセン政府は、1842年末から検閲を再強化したのである。これによりプロイセン国内の自由主義新聞はほとんどが取り潰しにあった国内のみならず隣国ザクセン王国にも圧力をかけてルーゲの『ドイツ年誌』も廃刊させる徹底ぶりだった。マルクスの『ライン新聞』もプロイセン神聖同盟を結ぶロシア帝国を「反動支柱」と批判する記事掲載したことでロシア政府から圧力がかかり、1843年3月をもって廃刊させられることとなったマルクス当人政府おもねって筆を抑えることに辟易していたので、潰されてむしろすっきりしたようである。ルーゲへの手紙の中で「結局のところ政府が私に自由を返してくれたのだ」と政府感謝さえしている。また『ライン新聞編集長として様々な時事問題携わったことで自分知識(特に経済)の欠如痛感し、再勉強集中する必要性感じていた。

※この「『ライン新聞』のジャーナリストとして」の解説は、「カール・マルクス」の解説の一部です。
「『ライン新聞』のジャーナリストとして」を含む「カール・マルクス」の記事については、「カール・マルクス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「『ライン新聞』のジャーナリストとして」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「『ライン新聞』のジャーナリストとして」の関連用語

『ライン新聞』のジャーナリストとしてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



『ライン新聞』のジャーナリストとしてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのカール・マルクス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS