「多羅尾伴内」誕生・大映時代
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「多羅尾伴内」の記事における「「多羅尾伴内」誕生・大映時代」の解説
昭和21年(1946年)、日本を占領中の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本刀を振り回す剣劇(チャンバラ時代劇)は軍国主義を煽り立てる危険があり好ましくないので禁止するとの通達を出した。以後、連合軍(事実上はアメリカ軍)の占領中は剣劇が製作できないことになり、時代劇製作が中心であった京都映画界は大いに動揺し、対応策を迫られた。大映の時代劇脚本家である比佐芳武は、時代劇の大スター片岡千恵蔵のために現代劇を書くように指示され、試行錯誤と苦心の末に名探偵「多羅尾伴内」を主人公とする『七つの顔』の脚本を書き上げた。時代劇のチャンバラは拳銃による銃撃戦に置き換えられた。 こうして、松田定次監督・比佐芳武脚本・片岡千恵蔵主演の黄金トリオを中心に映画『七つの顔』が完成した。内容は千恵蔵が七変化をするミステリ活劇というものであったが、冴えない人物に扮する場合が多いためか、試写の評判は良くなかった。しかし、映画が封切られるとたいへんな大評判となり、大ヒットを記録して、以後はシリーズ化されることになった。比佐脚本・松田監督・片岡主演のトリオでは、横溝正史原作の「金田一耕助」シリーズ(東横映画)が本格推理路線を、「多羅尾伴内」シリーズと「にっぽんGメン」シリーズがアクション路線を分担し、いずれもドル箱シリーズとなった。 ところが「多羅尾伴内」シリーズは、興行的には大成功しつつも、映画批評家の間では散々な悪評であった。 ストーリーは、幼稚なたわいない話が多く、荒唐無稽である。 千恵蔵が七変化をするのが映画のポイントだが、どんなに化けても観客には千恵蔵本人であることが一目瞭然であり化ける意味が薄く、また事件の推理・捜査と大して関連してもいない。 などであった。 ついに永田雅一大映社長は「多羅尾伴内ものなど幕間のつなぎであって、わが社は今後、もっと芸術性の高いものを製作してゆく所存である。」と言明した。 これに対して激怒した片岡千恵蔵は「わしは何も好き好んで、こんな荒唐無稽の映画に出ているのではない。幸い興行的に当たっているので、大映の経営上のプラスになると思ってやっているのに社長の地位にあるものが幕間のつなぎの映画とは何事だ。もう伴内ものは絶対に撮らない。大映との契約が切れたら再契約しない。」と断言した。こうして千恵蔵と永田社長は決裂し、大映の伴内シリーズは興行的に成功しつつも『七つの顔』『十三の眼』『二十一の指紋』『三十三の足跡』の4作品で打ち切りとなった。たしかに批評家たちがいうように、「多羅尾伴内」ものには荒唐無稽な印象がある。しかしながら、大戦後の貧しい復興期にあって、多くの観客は映画に対して理屈っぽさよりもむしろ理屈抜きの痛快さを求め、それが多羅尾伴内の大ヒットにつながったと考えられよう。 本項の冒頭経緯から『七つの顔』クランクインまでは難航し、会議と打ち合わせを繰り返して企画案が固まるまで時間を費やしている。戦争で上映禁止処分にされていたハリウッド映画が占領政策のプロパガンダ一環から続々と上映されるなか、片岡千恵蔵は比佐芳武と直接の打ち合わせに際しては「敗戦から疲れた人達が観て元気になる映画にしたい。」と抱負を語り、不慣れな現代劇から手探りの役作りに鏡へ向かってソフト帽を斜めにかぶり二丁拳銃の演技を稽古していた様子などを栄井賢が述懐し証言している。送り出した労作は映画館でアクションに歓声を呼び、荒唐無稽な描写や破綻した設定に笑いが溢れる娯楽作品となった。 他社のヒット作を欠かさずに観て流行傾向を探っていた片岡千恵蔵が試行錯誤から送り出したこのアクション無国籍活劇の娯楽映画は、のち移籍した東映で続作にギャングややくざ映画などへ連なった。戦後復活した日活では様々な制約からしばらくは低予算の娯楽コメディや文芸作を制作していたが、1956年のヒット映画『太陽の季節』、『狂った果実』などから財力拡大で類似したアクション無国籍活劇を次々と送り出している。 大映時代の作品名にはいずれも数字が含まれており、数が増していくという趣向が見られた。また、大映時代の作品は、後の東映時代に比べて筋書きがリアルであったともいわれる。大映作品の常連であった喜多川千鶴は、東映作品でも2度起用され、千恵蔵以外ではシリーズ最多の6作品に出演している。
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