「多聞寺」の存在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/01 07:24 UTC 版)
かつてこの地には「多聞寺」という寺院が存在していた。多聞寺は、当地にあった「多聞寺城」(世田谷城の東の砦)の中核部であったといわれる。多聞寺城はまたの名を「三宿城」といい、文明年間(1469年-1486年)の頃に吉良氏が築いたもので、三宿村もこの時期に開かれたという説がある。 三宿村は北宿、本宿、南宿の3つの字に分かれていた。多聞寺の付近は「字北宿」に属していて、南北を北沢川と烏山川(烏山用水)によって刻まれた台地であり、台地の東の端で両河川は合流して目黒川となっている。 往古の本尊である毘沙門天は村人たちに深く尊崇されていた。『新編武蔵国風土記稿』では、「多聞寺 村ノ北ニアリ。曹洞宗。郡中世田ケ谷村勝国寺ノ末、清水山天王院ト号ス」と記されていて、勝国寺(世田谷四丁目27番4号に現存)の末寺であった。同じ『新編武蔵国風土記稿』に「イヅレノ頃カ火災ニ遭ヒ、開山・開基ナドモ詳ナラズト云」とあって、創建年などは不明である。
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