「凶逆の人」から勤王家へ
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「織田信長」の記事における「「凶逆の人」から勤王家へ」の解説
江戸時代にあっては、江戸幕府の創始者として「神君」扱いされた徳川家康や『絵本太功記』等で庶民に親しまれた豊臣秀吉らとは異なり、一般的に信長の評価は低かった。儒学者の小瀬甫庵、新井白石、 太田錦城らは、いずれも信長の残虐性を強調し、極めて低く評価した。例えば、新井白石の信長評は、親族を道具のように扱い、主君である足利義昭を裏切り、大功のあった老臣佐久間信盛らを追放し、言いがかりをつけて他の大名を滅ぼした「凶逆の人」であるというものであった。そして、白石は「すべて此人(信長)天性残忍にして詐力を以て志を得られき。されば、其終を善せられざりしこと、みづから取れる所なり。不幸にあらず」と述べ、信長の死を、残虐性ゆえの自業自得だと位置付けた。ただし、江戸幕府の立場から見た場合、信長は徳川家康の同盟者であり、なおかつ徳川信康を自害に追い込んだ人物である以上、幕府としては信長が「神君」家康さえも従わせる絶対的権力者であったことも示す必要性があり、江戸幕府の正史である『徳川実紀』(「東照宮御実紀」巻2)では家康と共に天下統一を目指す存在としての評価もなされた。民衆のあいだでも信長は不人気であり、歌舞伎や浄瑠璃などにおいても、信長は悪役・引き立て役に留まっている。 このように信長に対する酷評が広まった状況にあって、信長を再評価したのが、頼山陽である。江戸時代後期の尊王運動に多大な影響力を有したことで知られる頼山陽の『日本外史』は、信長を「超世の才」として高く評価した。『日本外史』は、信長の勤王家としての面を強調する。そして、中国後周の名君・世宗の偉業が趙匡胤の北宋樹立に続いたのと同じように、信長の覇業こそが、豊臣・徳川の平和に続く道を作ったのだと述べる 夫れ応仁以還、海内分裂し、輦轂の下、つねに兵馬馳逐の場となる。右府に非ずして誰か能く草莱を闢除し、以て王室を再造せんや。 — 頼山陽『日本外史』 また国学者からも、日本の統一者として、後醍醐天皇と対立した足利氏への否定的見解と相まって高く評価された。例えば、本居宣長は『玉鉾百首』の中で「しづはたを織田のみことはみかどべをはらひしづめていそしき大臣」という歌を詠み、「此大臣(=織田信長)、正親町天皇の御代永禄のころ、尾張国より出給ひて、京中の騒乱をしづめ、畿内近国を討したがへ、復平の基を開き、内裏を修理し奉りなど、勲功おおひなること、世の人よくしれる事なり」と高く評価した。 幕末の志士たちも、御料所回復等を行っていたことなどを評価して、信長を勤王家として尊敬した。明治2年(1869年)になると、明治政府が織田信長を祀る神社の建立を指示した。明治3年(1870年)、信長の次男・信雄の末裔である天童藩(現在の山形県天童市)知事の織田信敏が、東京の自邸内と藩内にある舞鶴山に信長を祀る社を建立した。信長には明治天皇から建勲の神号が、社には神祇官から建織田社、後には建勳社の社号が下賜された。その後、明治年間には東京の建勲神社は、京都船岡山の山頂に移っている。大正6年(1917年)には正一位を追贈された。 こうした傾向は歴史学の分野でも同様であり、当時は信長の勤王的側面を重視する研究が行われた。
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