「出・東北」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 16:22 UTC 版)
幕末から明治維新の時代、東北地方と新潟県の諸藩のうち多数派は、奥羽越列藩同盟を結成して薩長と敵対したが、敗北した(→戊辰戦争)。そのため、明治政府によって所領の没収や転封を強いられ、更に秩禄処分などの政策によって家臣団を中心に経済的困窮が深まり、北海道(蝦夷地)への集団移住者を多数出すに至った。新政府側につき、奥羽越列藩同盟と戦った少数派の秋田藩・弘前藩などもまた、同様に秩禄処分の影響を受け、戊辰戦争で莫大な出費をしたため、経済的な困窮を強いられ多数の移住者を出した。このような武士階級・知識階級の減少と、東北地方の拠点港として建設された野蒜築港の失敗が、後の東北地方の発展を遅らせる結果を生んだ。 富国強兵政策が軌道に乗って来ると、商品経済の波が東北地方にも及び、現金収入(商品作物・余剰米)の少なかった農村では余剰労働力(農家の次男以下が多かった)が増加した。東北地方では、福島県の工業、秋田県の鉱業は発展していたが、全般的に産業発展が後れており、また、城下町や港町の経済近代化が後れたため、それら余剰労働力の全てを吸収することが出来ずに域外への流出を招いた。そのため、関東などの工業地帯や北海道の炭鉱地帯に移住したり(第一次産業→第二次産業)、農地開拓を目的として北海道や満州国、ハワイに集団移住したり(第一次産業→第一次産業)する者が現れた。 第二次世界大戦が終わり、高度経済成長時代が到来すると、第一次産業の余剰労働力は、京浜工業地帯(第二次産業)に「金の卵」として集団就職した。 このように、戊辰戦争敗北から(太平洋ベルトの)高度経済成長期まで、東北地方では、「移住」(集団移住)による労働力大量流出の時代が続いた。
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