糸井重里
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糸井重里 | |
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誕生 |
1948年11月10日(75歳) 日本 群馬県前橋市 |
職業 | コピーライター、エッセイスト、タレント、作詞家 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 群馬県立前橋高等学校 |
デビュー作 | 『さよならペンギン』 |
配偶者 | 樋口可南子 |
来歴
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生い立ち
群馬県前橋市出身。生誕後に両親が離婚し、司法書士であった父親の元に引き取られ祖母に育てられる。その後、実母と1981年に再会した。
小学校3年の時に父親が再婚。幼少時から漫画好きで漫画家に憧れていた。中学時代は北杜夫に熱中した。
群馬県立前橋高等学校に入学。文学青年の友達ができ、アングラ文学などに目覚める。また、バンカラを気取って一本歯の下駄で学校に通った。高校1年の時にバンドを組みたくなり、お金を稼ぐためにオルガンやピアノのセールスマンの下請けとなり10台売ったという。また、文化祭の企画で「ハプニング」的なことをやりたくなり、江戸川乱歩の『赤い部屋』を再現したり、ベトナムの僧侶の焼身自殺を真似たりした。
法政大学文学部日本文学科に入学。1年ほどガテン系のアルバイトをする。在学中に学生運動に身を投じ逮捕されること5回。その後中退した[5]。
コピーライター
知人に薦められて「宣伝会議」のコピーライター養成講座に通い、1968年にデザイン事務所「サムシング」に就職。1969年に栗田工業主宰のTVCFアイディア賞で銀賞を、1971年には金賞を受賞するが、1973年に「サムシング」が倒産。そのままフリーランスとなる。同年、宣伝会議賞受賞。
1975年、トーメンアパレルから発売されていたジーンズブランド「WELDGIN」の「このジャンパーの良さがわからないなんて、とうさん、あなたは不幸な人だ!」のコピーで、東京コピーライターズクラブ新人賞受賞。同年、イラストレーター湯村輝彦に出会い、彼の主宰のORIGINAL FLAMINGO STUDIOの創設に参加。
1976年、湯村と共に制作した、「WELDGIN」の広告で、東京アートディレクターズクラブ賞(ADC賞)を受賞。同年、漫画雑誌『ガロ』の編集者の南伸坊からの依頼で、糸井が原作、湯村が作画の「ペンギンごはん」シリーズの発表を始める[注釈 1]。また、『ガロ』の編集部にいた南伸坊、渡辺和博らを介して、「赤瀬川原平人脈」との親交が始まる。同年7月、糸井原作、湯村作画で「さよならペンギン」を刊行。
1978年、矢沢永吉の自伝本『成りあがり』の構成と編集を手掛ける。同書はベストセラーを記録した。
糸井重里事務所
1979年、沢田研二の「TOKIO」の作詞を担当。また、スナック等でちり紙やマッチなどで行う、気の効いた「芸」をまとめた著作『スナック芸大全』を刊行。自身の名義での処女出版となると共に、この年「東京糸井重里事務所」(現:「株式会社ほぼ日」)を設立。この事務所に、当時美大生でスタッフの友人であったみうらじゅんが盛んに出入りするようになり、糸井がみうらを『ガロ』編集部に紹介。みうらの漫画家デビューのきっかけを作った。
1980年9月から、サブカルチャー雑誌『ビックリハウス』において、読者投稿ページ「ヘンタイよいこ新聞」を担当。その「意味のない面白さ」で読者を熱狂させ、若者たちの教祖的存在となる。また、『ビックリハウス』に関係していた、新進気鋭のミュージシャン、アーティストとの交際も始まる。
1980年に情報センター出版局の編集者が、糸井重里にプロレスのエッセー執筆を依頼。しかし糸井は自分の知っているプロレスフリークの編集者の方が面白いと村松友視を紹介した。編集者から話を聞いた村松は気楽な気持ちで執筆、更に会社の人間は読まないだろうと本名で『私、プロレスの味方です』を出版。本人の予想外のベストセラーとなり、続編『当然プロレスの味方です』も執筆することになった。
1982年5月、新聞終刊記念イベントとして「ヘンタイよいこ白昼堂々秘密の大集会」を糸井と鈴木慶一らで企画[注釈 2]。
また、1982年4月から1985年3月まで、NHKの若者向け番組「YOU」の司会も担当。
その後、西武百貨店の「不思議、大好き。」(1982)「おいしい生活」(1983) などのキャッチコピーでコピーライターとしても脚光を浴びる。仲畑貴志や川崎徹らと共に注目を集め、「コピーライター・ブーム」を呼んだ。
1983年からは『週刊文春』において「家元」と名乗り、読者投稿型のコピー講評「糸井重里の萬流コピー塾」の連載を開始[注釈 3]。
1984年、有楽町マリオンの完成記念イベントとして「夕刊イトイ」を企画[注釈 4]。
1989年、ゲーム製作のための会社「エイプ」を設立。制作した『MOTHERシリーズ』はカルト的なファンを生んだ。
人物
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名前の重里(しげさと)はスタンダールの小説「赤と黒」の主人公ジュリアン・ソレルにちなんで名付けられた(ジュリアン→ ジュリ→ 重里)。基本的に一人称は「ぼく」である。
モノポリーが趣味で、日本モノポリー協会会長でもある[6]。2011年に雑誌の特集で「自身が書いた本の帯から(自薦で)一番を決める」という企画が組まれた際、糸井はかつてモノポリー専門書につけたコピー「天使と悪魔が徹夜する!」をナンバーワンに挙げている。
バス釣りも趣味。1996年12月に刊行された糸井の著書『誤釣生活』は、雑誌『SINRA』に連載された。
また、プロ野球・読売ジャイアンツ(巨人)のファンとしても有名で、『ニュースステーション』ではファン代表としてキャッチコピーをつけたりした。有名なものとして90年代巨人のエースだった斉藤雅樹に『桃太郎』という愛称を名づけたりした。そのほか、同番組で「巨人が優勝を逃したら六本木を坊主頭・褌一丁でランニングする」と宣言した年に巨人が優勝できなかったため、実際に「日曜日の深夜3時」にその姿を撮影した写真をキャスターの久米宏に見せたこともある[7]。2002年の『ほぼ日刊イトイ新聞』での藤田元司のと対談で「年間70試合、オープン戦から日本シリーズまで、ずっと巨人の後をついてまわっていたんですから、仕事している人間としてはマズイです。あんなことができていて、しかも、『糸井さん仕事してるね』『忙しそうだね』と言われていたのは、どう考えてもおかしいです」と自ら振り返っていた[8]。
任天堂と関わりが深い。糸井がシナリオ等を手掛け1989年に任天堂より発売されたゲームソフト『MOTHER』を機に、任天堂社長の山内溥やゲームクリエイターの宮本茂と交友を深める。また、1994年発売の続編『MOTHER2 ギーグの逆襲』を開発したハル研究所の当時の社長で後に任天堂の社長となる岩田聡とも親交が深く、「ほぼ日刊イトイ新聞」では宮本・岩田との対談記事が定期的に掲載された。なお、1995年6月から2001年6月には糸井がハル研究所の取締役を務めており、この期間には同社の企業ロゴ(通称「犬たまご」)の考案も行っている[9]。
尊敬する人物や影響を受けた人物として藤田元司、和田誠、土屋耕一、横尾忠則といった名前を挙げている。
妻の樋口可南子とは再婚である。1981年に一般女性と結婚。同年に娘が生まれたものの、翌1982年には樋口との不倫が発覚。糸井と前妻との離婚成立後に同居を始め、1993年、樋口と正式に結婚した。
一時期柴田亜美が同じマンション(南青山第一マンションズ)に居住しており、柴田の漫画『ドキばぐ』で「ところでこのマンション糸井重里さんの事務所もあるんだけど、時々1階のロビーできつい顔して座ってる方々…ひょっとして任天堂の人?」というセリフがある[10]。
注釈
- ^ かわいいペンギンが登場するが、ストーリーは陰惨な内容という作品であった。
- ^ 「ヘンタイよいこバンド」(忌野清志郎、チャボ、矢野顕子、坂本龍一、鈴木さえ子、どんべで構成)をはじめ、井上陽水、高橋幸宏、篠原勝之、立花ハジメ、南伸坊、合田佐和子、栗本慎一郎、仲畑貴志、ムーンライダーズ、ブッチャーブラザーズ、コント赤信号、浅葉克己、東京乾電池、三遊亭円丈等が出演。司会は和田又八だった。
- ^ 投稿が掲載されてポイントをためれば「名取」になり、自分の名前の一部に「井」「重」「里」の文字をいれた「萬名」を名乗ることが許された。さらにポイントがたまると「師範」を許された。この「現代によみがえった、江戸時代の俳諧遊び」のような楽しさに投稿者たちは熱狂し、川上宗薫、山藤章二、すがやみつるなども一投稿者として参加した。また、刊行元であるネスコ編集者の名女川勝彦(現・文藝春秋社取締役)が「番頭」役として参加していた。1988年に連載は終了。萬流コピー塾の師範出身者には、「萬名・小林井秀雄」(本名小林秀雄。のち、プロのコピーライターとなり、代表作は「私、脱いでもすごいんです」)、「萬名・重亀海昌次」(本名亀海昌次。糸井より年上のアートディレクター)、「萬名・戸田里昭吾」(本名戸田昭吾。作詞家としてポケットモンスターの主題歌などを作詞。広告コピーやシナリオ執筆)、「萬名・吉田浩之里」(お笑いプロデューサーになり、ヒロ吉田)、「萬名・原囲一也」(本名原口一也、さくまあきらの弟子のゲーム・ライターとなった)等がいる。
- ^ 糸井が編集局長で、各号の編集長を、久住昌之、みうらじゅん、島地勝彦、渡辺和博、天野祐吉、南伸坊、秋山道男、蛭子能収、川上宗薫、石原真理子、泉麻人、鈴木慶一、巻上公一、小林井秀雄に依頼し、自由な誌面を作ってもらった。
- ^ 糸井はザ・ベストテンの司会・久米宏をイメージさせる格好に扮し、共演した清水ミチコも同じく黒柳徹子を思い起こさせる格好で登場している[16]。
- ^ この当時カネボウ化粧品のキャンペーンソングとなった、男性デュオ・SKYの「君にクラクラ」の曲名にも起用された。
- ^ 実在しない賞だが(谷川俊太郎は自分の名が使われる賞の創設を固辞している)、この本を読んだ谷川が「谷川俊太郎賞をあげたい」とメッセージを送ったことから贈呈が決まった。
出典
- ^ “社長あいさつ”. 株式会社ほぼ日 (2020年6月6日). 2020年10月5日閲覧。
- ^ “役員紹介”. 株式会社ほぼ日 (2018年7月6日). 2018年9月14日閲覧。
- ^ “役員紹介”. フィールズ株式会社 (2018年6月20日). 2018年9月14日閲覧。
- ^ ニンドリドットコム〜糸井重里さんインタビュー〜
- ^ ほぼ日刊イトイ新聞「糸井重里500分」
- ^ 1992年のモノポリー世界選手権に日本代表として出場し、8位入賞を果たしている。なお、前回(1988年)に日本人初の世界チャンピオンとなった百田郁夫もディフェンディングチャンピオンとして出場しており、準優勝に輝いた。
- ^ “久米&糸井、“坊主”の思い出語る”. テレビ朝日. (2014年9月7日) 2020年6月6日閲覧。
- ^ 体温のある指導者。藤田元司。 第13回 期待が人間を育てる ほぼ日刊イトイ新聞 2002/11/13 (2022年9月25日閲覧)
- ^ “犬たまごができるまで”. ハル研究所. 2021年3月24日閲覧。
- ^ 「ジャングル少年ジャン番外編 ドッキンばぐばぐアニマル』1巻[要ページ番号]
- ^ “「株式会社 ほぼ日」になりました。”. 株式会社ほぼ日 (2016年12月1日). 2017年1月13日閲覧。
- ^ “ほぼ日刊イトイ新聞 任天堂、岩田聡社長と糸井重里が話す。”. 株式会社東京糸井重里事務所 (2007年9月14日). 2011年9月25日閲覧。
- ^ “糸井重里氏の「ほぼ日」、3月16日にジャスダック上場 東証が承認” (2017年2月13日). 2017年2月13日閲覧。
- ^ 新規上場会社の概要 - 日本取引所グループ
- ^ ほぼ日刊イトイ新聞-糸井重里の脱線WEB革命
- ^ “[あまちゃん]「ザ・ベストテン」を彷彿とさせる歌謡番組が登場! 司会は糸井重里&清水ミチコ”. マイナビニュース. まんたんWEB (マイナビ). (2013年7月13日). オリジナルの2013年10月7日時点におけるアーカイブ。
- ^ 司会者役で糸井重里が「あまちゃん」に出演! - ほぼ日刊イトイ新聞 2013年7月17日付
- ^ “となりのトトロ”. 金曜ロードSHOW!. 2016年6月5日閲覧。
- ^ 『東京ガス 暮らしとデザインの40年 1955→1994』1996年2月1日発行、株式会社アーバン・コミュニケーションズ。128頁~131頁
- ^ 大瀧詠一の別名
固有名詞の分類
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