記憶
『失われた時をもとめて』(プルースト)第1篇「スワン家のほうへ」 寒い冬の日。帰宅した「私」に、母が、紅茶を飲んで暖まるよう勧める。「私」は、マドレーヌ菓子を溶かした紅茶を口に含むが、その瞬間、すばらしい幸福感がわきあがる。それは、幼年時に叔母の部屋で食べた菓子の味を思い出したからであり、味覚をきっかけに、叔母とともに幼年時を過ごした田舎町コンブレーでの記憶が、いきいきとよみがえった〔*小説の最終篇である第7篇「見出された時」でも、「私」はもう1度同様の経験をする。多年を経て初老に達した「私」は、ゲルマント大公夫人邸のパーティーに招かれ、中庭の敷石につまづく。「私」は、かつて母とヴェニスを旅行して寺院の敷石につまづいたことを想起し、記憶が時間を超越する実在であることを知って歓喜する〕。
『ドグラ・マグラ』(夢野久作) 玄宗皇帝に仕える絵師呉青秀が、妻を絞殺して死体の変相図を絵巻物に描いた。それから1千年以上を経て、呉青秀の遠い子孫である大学生呉一郎がその絵巻物を見ると、たちまち心理遺伝によって、呉青秀としての記憶がよみがえる。呉一郎は正気を失って婚約者モヨ子を絞殺し、その死体を絵に描こうとする〔*呉一郎は大学病院の精神科に収容される。モヨ子は死なず蘇生して、呉一郎の病室の隣りに収容される〕。
『ドラえもん』(藤子・F・不二雄)「わすれとんかち」 記憶喪失の男が町に来たので、ドラえもんが、記憶をたたき出すとんかちで男の頭をたたく。すると、東京タワーから落ちる・自動車にひかれる・城に住む・大金を数えるなど、男の波乱万丈の人生を示す記憶が次々に出てくる。警官隊と銃撃戦をする記憶まであらわれ、男は「自分はギャングだったような覚えもある」と言う。男は、映画の悪役スターなのだった。
『ABC殺人事件』(クリスティ) 行商人カストは戦争で頭を負傷し、時々記憶喪失を起こすようになる。彼は殺人犯にあやつられ、血のついたナイフをポケットに入れられて、自分は知らぬまに連続殺人を犯したのではないかと思い、自首する。
『かくも長き不在』(コルピ) テレーズの夫は第2次大戦中ナチに連行され、戦後10数年を経ても消息不明である。ある日、夫そっくりの浮浪者が通りかかるが、彼は記憶を失っており、テレーズが食事やダンスに誘っても、何も思い出せない。夜、去って行く浮浪者に、テレーズは夫の名で呼びかける。その時、戦争中の恐怖の記憶が蘇り、彼は夢中で走り出す。前方からトラックが来る。
『心の旅路』(ルロイ) 第1次大戦に従軍したチャールズは、戦場で一切の記憶を喪失し、病院に収容される。ある日、彼は病院を抜け出て街をさまよい、踊子ポーラと出会い結婚して、ゼロからの新生活を始める。ところが3年後、チャールズは交通事故で頭を打ち、自分が富豪の跡継ぎだったことを思い出すが、過去の記憶回復と引き換えに、今度はポーラとの3年間の記憶を喪失してしまう→〔同一人物〕3。
『銀座の恋の物語』(蔵原惟繕) 画家・次郎の恋人・久子が、交通事故の衝撃で記憶をすべて失う。次郎が描いた久子の肖像画を見て、彼女は激しく心を動かされるが、記憶を取り戻すにはいたらない。ある夜、久子は次郎の留守に、卓上ピアノを何気なく叩く。すると指が自然に動き出し、あるメロディーを弾き始める。それは、かつて次郎と久子が愛唱していた『銀座の恋の物語』のメロディーだった。そこへ次郎が帰って来て、久子は記憶を回復する。
★3a.記憶と前世。
『今昔物語集』巻7-4 震旦の僧は、『大般若経』6百巻のうち2百巻は記憶できたが、4百巻は覚えられなかった。前世で牛だった時、2百巻を背負ったが残りの巻々には縁がなかったのだった。
『今昔物語集』巻7-20 震旦の僧は、『法華経』「薬草喩品」の「靉靆」の2字が記憶できなかった。彼が前世で女だった時に読誦した『法華経』中の「靉靆」の2字が紙魚に食われており、読めなかったからであった。
『夢十夜』(夏目漱石)第3夜 男が、今から百年前すなわち前世に1人の盲人を殺したことを、その盲人の生まれ変わりである盲目の息子から教えられ、前世の記憶がよみがえる→〔背中〕1a。
★3b.記憶力の弱い人。
『黄金伝説』50「主のお告げ」 ある騎士が修道士になるべく勉強するが、「アヴェ・マリア」の2語しか覚えられず、彼はいつもその2語をつぶやいていた→〔口〕5b。
『沙石集』巻2-1 仏の御弟子須利盤特(しゅりはんどく)は記憶力が弱く、自分の名前すら忘れるほどだった。仏は彼を哀れみ、「守口摂意身莫犯、如是行者得度世」の偈(げ)を与える。須利盤特はこれを信じ修行して、「羅漢果」という悟りの境地を得た。
『鋸山奇談』(ポオ) 1827年、ベドロウ( Bedloe )はヴァージニア州の鋸山を散策中、「戦闘に巻きこまれ、毒矢が右こめかみに刺さって死ぬ」との白日夢を見る。医師テムプルトンは、「それは1780年にインドで死んだ自分の親友オルデブ( Oldeb )の記憶だ」と説き、「ベドロウとオルデブの容貌はそっくりだ」と言う。1週間後、ベドロウは右こめかみへの瀉血治療の手違いで死ぬ。新聞の死亡記事は誤植で Bedlo となり、それは Oldeb の綴りのちょうど逆だった。
*アシモフ( Asimov )の逆綴り ヴォミーサ( Vomisa )→〔ロボット〕3cの『ヴォミーサ』(小松左京)。
*佐清(すけきよ)を逆に読んで「よきけす」→〔逆さまの世界〕4の『犬神家の一族』(横溝正史)。
『鏡の国のアリス』(キャロル) 鏡の国を訪れたアリスに、白の女王が「あともどりしながら生きているので、記憶力が前と後ろの2方向に働いて便利じゃ。よく思い出すのは再来週起こったことじゃ」などと教える。そのうちに女王は、「指から血が出た。今度ショールを留める時じゃ。ブローチが今すぐはずれる」と騒ぎ出す。まもなくブローチがはずれ、留め針が女王の指を刺す。
『幼年期の終わり』(クラーク) 宇宙からの知性体が地球を訪れたのは、新人類誕生の時が来たからだったが、それは同時に、旧人類=ホモ・サピエンスの死滅をも意味するのであった。そのため人類は、知性体の姿を、死をもたらす恐ろしいものとして記憶した。この強烈な記憶は何千年もの時間を逆行し、太古以来の人類の心に悪魔のイメージとして刻印された→〔悪魔〕8。
★6.記憶を持つ人と持たぬ人。
『豊饒の海』(三島由紀夫)・第4巻『天人五衰』 綾倉伯爵家の長女聡子は、松枝侯爵家の嫡子清顕の子を宿すが堕胎し、月修寺に入って剃髪した。清顕は病死し、彼の親友本多繁邦は、清顕の生まれ変わりの人物を探し求めて、数十年が経過する(*→〔ほくろ〕1b)。81歳になった本多は月修寺を訪れ、聡子と60年ぶりに対面する。聡子は、「松枝清顕という人は知らない。そんな人はもともと存在しなかったのではないか」と言う。本多は「記憶もなければ何もない所へ、自分は来てしまった」と思う(30)。
*『班女』で、花子が吉雄の顔を見て、「吉雄ではない」と否定する場面を想起させる→〔人違い〕3c。
『弓浦市』(川端康成) 小説家香住庄助の家を見知らぬ女が訪れ、30年前、香住が九州の弓浦市に旅した時、お目にかかった者だ、と名乗る。その折、香住は女の部屋まで行って求婚したが、女にはすでに婚約者がいたのだったと言う。しかし香住には記憶がない。女が帰った後、香住は九州地図を開いたが、弓浦市は実在しなかった。
『記憶の人、フネス』(ボルヘス) イレネオ・フネスは落馬事故のため19歳で寝たきりになったが、意識を回復した時、生まれてから見たり聞いたり考えたりしたことの、すべての記憶がよみがえった。以後もフネスは、日々経験することがらを細部まで記憶し、忘れることができなかった。しかし、彼の思考能力は乏しかった。思考とは、相違を忘れ、一般化し、抽象化することだからである。フネスは21歳で死んだ。
『ギリシア哲学者列伝』(ラエルティオス)第8巻第1章「ピュタゴラス」 ヘルメスが息子アイタリデスに、「不死以外のことなら何でもかなえてやる」と言う。アイタリデスは「生きている間も死んでからも、自分の身に起こった出来事の記憶を保持できるようにしてほしい」と頼む。アイタリデスは転生してエウポルボス、ヘルモティモス、ピュロス、そしてピュタゴラスとなった(*→〔前世〕4aの『変身物語』(オヴィディウス)巻15)。ピュタゴラスは以前の転生のすべての記憶を持ち、さらに冥府で味わった苦難や、多くの動物・植物に生まれ変わったことをも覚えていた→〔冥界の時間〕3。
★8.擬似記憶。
『時をかける少女』(大林宣彦) 西暦2660年の世界は、植物が絶滅した世界だった。その時代の少年薬学博士が、植物の成分を求めて20世紀日本の或る町へやって来る。彼は高校生として生活し、クラスメイトの芳山和子をはじめとする周囲の人々には、彼がその町で生まれ育ったかのごとき擬似記憶を与えた。彼は植物成分の採集を終え、彼に関わった人々の記憶を消し、彼自身の記憶も消して、未来世界へ帰って行く〔*→〔忘却〕8の『竹取物語』では、かぐや姫は翁への哀れみの心をなくすだけで、翁たち地上の人々の記憶は消さずに、月世界へ帰る〕。
*「人間である」との擬似記憶を移植されたアンドロイド→〔人造人間〕1の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(ディック)。
世界五分前仮説(ラッセル『心の分析』講義Ⅸ「記憶」) 記憶を構成するすべてのものは、今あるのであって、過去にあったものではない。記憶があるからといって、その過去が存在したとはいえない。「世界は、実在しない過去の記憶を持つ全人類とともに、今から5分前に突如として存在し始めた」という仮説には、いかなる論理的不可能性もないのである。
*逆に、実際にあった過去の出来事の記憶を、人々の心から消去してしまう→〔戦争〕8の『戦争はなかった』(小松左京)。
『惑星ソラリス』(タルコフスキー) 惑星ソラリスの広大な海は、ソラリスを訪れる人間の脳から記憶を引き出して、それを物質化した。心理学者クリスの前には、10年前に自殺した愛妻ハリーそっくりの女が現れた。クリスと女は愛し合うが、女は自分が本物のハリーではないことを知っており、クリスも女も苦悩する。やがて女は別れの手紙を残して、自らを消滅させた→〔生命〕3。
『華氏451度』(ブラッドベリ) 読書が禁ぜられ、書物が焼き棄てられる時代。少数の人々は田舎に隠れ住み、書物を、その全文を記憶することによって守ろうとした。ある者はプラトンの『国家』を、ある者は『マタイ伝』を暗誦し、ダーウィンやアインシュタイン、あるいは仏陀や孔子などを担当する者もいた。もと焚書官モンターグは都市から逃亡して(*→〔本〕2)、彼らの一員となり、『伝道の書』の暗誦を始めた。
『志賀直哉』(阿川弘之)「戦中縁辺」 溝井勇三(1915~97)は23歳で北支戦線へ出征し、赤痢がきっかけで関節ロイマチスを発症する。そのため四肢が硬直し、ほぼ寝たきり状態になってしまった。一時は自殺を考えた溝井だが、岩波文庫の『暗夜行路』上下2冊に出会って異常な感銘を受け、『暗夜行路』後篇全文の暗記にとりかかる。1日1頁を限度として暗記・復唱を続け、昭和17年(1942)2月初め、ついに全文を暗記し終えた〔*溝井は志賀直哉から激励されて、直井潔のペンネームで幾編かの小説を書いた〕。
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