シリアルキラー
連続殺人
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「古谷惣吉連続殺人事件」の記事における「連続殺人」の解説
古谷は熊本刑務所を仮出所すると、更生保護会「熊本自営会」(熊本県熊本市)で土木作業に携わるようになった。惣吉の父親や、彼と同居していた甥夫婦は惣吉への感情が極めて悪く、姉婿も身元を引き受ける意思がなかったため、熊本自営会がその身元を引き受けることになったのである。古谷は熊本自営会に帰住した際、「二度と(刑務所に)入所するようなことはしない」との決意を示し、将来の職業として「経験のある溶接か洋裁をしたいが、土工でもなんでもして働きたい」という意欲を示していた。 熊本自営会にいた当時、古谷はあまり外泊せず、門限を守り、新聞をよく読んで身だしなみに気を使うなど、真面目に生活していた。このころ、古谷は雑記帳に以下のような手記を書いている。 「人を殺したと云う事は悪いかも知れぬ。併し殺さねばならぬという必然の上に立った行動にはいささかも悔ゆる処は無いのである。如何に前科を重ねた凶悪な囚人でも、ものに感じる気持は人一倍持っている。私は今日の刑ム官に牢番や番犬になってもらいたく無い」 — 古谷惣吉「罪の是非」、 また、古谷はこのころ、「旅愁」と題した詩で「旅人よ、何をそんなに急ぐんだ。明日への希望を持て」などと歌っていた。一方、古谷は日記に「天狗の鼻をへし折ってみたい」という反権力主義を吐露した文章や、「人間の刺身を喰いたい」という一文も記していたが、事件後にはマスコミによって「イダ天殺人魔」「連続殺人に狂う」「まれにみる逃走の名人」などといった論調で取り上げられることはあっても、後者の言葉が取り上げられることはなかった。石田郁夫 (1979) は、後者の言葉について「これらの片言隻句から、彼の残忍性、冷血、凶暴をあかし立てるものたちもいるわけだが、うっぷんを紙の上に晴らして自制していたにすぎまい。」と述べている。 同年11月12日、古谷は保護観察所長に対し、「本籍地の父親(実際は同年2月4日に死去していた)を見舞いたい」と旅行許可を求めた。保護観察所長は、古谷が長期間在監生活を送っていたことや、父親が高齢であること、また12月から就職するよう斡旋していた事情から、20日間の旅行を許可。古谷は予定通り、同年11月29日に旅行から帰ってきたが、その旅行中の11月17日には、鳥取県米子市で廃品回収業者が殺害される事件(古谷の関与が疑われたが、立件されなかった。後述)が発生している。 同年12月1日、古谷は熊本市内の水道配管工事に従事し、更生保護委員会から通勤するようになった。1965年1月8日には、保護観察所の主任官との面接で、本人の希望もあって雇主の家への住み込みが認められ、同年2月20日には担当の保護司が、熊本自営会の主幹(仮出所直後からの担当者)から別の人物に交代している。しかし、古谷は同月28日、雇主との喧嘩がきっかけで、雇主への暴力沙汰を起こした。この時は雇主の配慮もあって、当事者間で解決され、担当の保護司も保護観察所への報告を見送っていたが、古谷はこの事件がきっかけで水道配管工を退職し、3月・4月は適職がなかったため、更生保護会の庭園工事の手伝いをしていた。また、配管工を辞めてから前後8回にわたり、元雇主の仕事現場に現れて脅迫し、20,000円を脅し取る事件を起こしているが、この事実は逮捕後に元雇主が保護観察所へ報告するまで明るみにならなかった。 古谷は同年5月1日、熊本自営会の主幹から小遣いとして2,000円を借りたが、4日まで無断外泊したまま帰らなかった。同月5日朝、いったん熊本自営会に帰ってきたが、それ以降は行方不明になり、同月27日には担当者から主任官に対し、その旨が報告される。このため、翌28日には熊本保護観察所長が、長崎保護観察所長宛に地古谷の所在調査を依頼したが、同所長は29日、「古谷は父方(本籍地)に居住しておらず、立ち寄った形跡もない」と報告した。そのため、熊本保護観察所長は同日、九州地方委員会に対し、所在不明による保護観察停止の申請手続を行い、同年6月1日、九州地方委員会は保護観察を停止することを決定した。同月6日、同決定の効力が発生したことで保護観察は停止され、残り刑期の進行も停止したが、最終的には本人が一連の事件で逮捕され、所在が判明したことを受け、同年12月18日に近畿地方委員会が保護観察停止の解除を決定し、刑期満了日は同年12月22日に変更された。同日、熊本保護観察所長からの申請を受け、九州地方委員会は古谷の仮出獄を取り消すことを決定した。 自営会を出て以降、古谷は1965年(昭和40年)8月 - 12月にかけて福岡県・兵庫県・滋賀県・京都府・大阪府の2府3県で、強盗殺人7件(被害者8人)・強盗1件・強盗未遂1件の犯行を繰り返した(太字は強盗殺人事件、および死亡した被害者)。 一連の事件の共通点としては以下のような点が見い出されている。 犯行現場 - 一軒家、もしくは他と独立した掘立小屋風の建物。 被害者 - いずれも人家から離れた場所で身寄りもあまりなく、毎日をどうにかやりくりしながらひっそり暮らしていた老人か、1人留守中の老人。主にバタ屋(廃品回収業)の者だった。 犯行態様 - 古谷は自身の強力な腕力により、年老いて抵抗もままならない被害者たちの鳩尾や胸部に先制の一撃を見舞い、両手首を後手に縛った上で絞殺するか、持っていた凶器で殺害した。そして殺害後に金品を強取し、死体の上に布団などを掛けて隠蔽を図り、逃走時には入り口に錠前を掛け、犯罪の発覚を遅らせた。 動機 - 古谷と被害者たちとの間に面識はなく、人を殺害しなければならないほどの特段の動機はなかった。高槻事件(F事件)の取り調べの際、古谷は「被害者Fに『飯を食わせてくれ』と頼んだが、『大きなことを言うな』と言われて立腹し、絞殺した」と供述している。 各事件の経緯事件名事件発生日時事件発生地点罪状被害者(括弧内は当時の年齢)被害品備考X事件 8月19日11時ごろ 福岡県福岡市大字松崎宇美川堤防上バラック 強盗 男性X(69歳)廃品回収業 X所有の金品現金約20,000円・定期預金証書(残高10万円)1通・利付興業債券保護預帳(額面合計金48万円)1通・印鑑1個 垂水事件(A事件) 10月30日ごろ 兵庫県神戸市垂水区海岸通7番16号の小屋 強盗殺人 男性A(57歳没)廃品回収業 A所有の金品現金約500円・男物腕時計1個・男物ズボン2本・白メリヤスパッチ1枚・白メリヤス丸首シャツ1枚 同年11月29日、福岡事件の捜査中に発覚(後述)。 大津事件(B事件) 11月1日ごろ21時ごろ 滋賀県大津市錦織町(琵琶湖畔)「柳が崎水泳場」の掘立小屋 男性B(59歳没)米菓子加工業・水泳場管理人 B所有の金品現金約170円・腕時計1個・白メリヤス肌着2枚 同年11月9日に発覚。 Y事件 11月17日ごろ18時30分ごろ 福岡県福岡市箱崎原田町一丁目「原田橋」東詰下の小屋 強盗未遂 男性Y(39歳)廃品回収業 何も持ち去らず逃走(下記参照) 福岡事件(C事件) 11月22日正午ごろ 福岡県粕屋郡新宮町上の府雲雀ヶ丘1592番地の1の小屋 強盗殺人 男性C(54歳没)英語塾講師 Cおよび家族所有の金品現金5,000円・トランジスタラジオ1台・腕時計+バンド各1個・ズボン1本・長袖シャツ1枚 黒皮手袋1双(Cの家族所有) 伏見事件 (1)(D事件) 12月3日ごろ21時ごろ 京都府京都市伏見区中島河原田町「京川橋」下の小屋 男性D(67歳没)廃品回収業 D所有の金品男物腕時計1個・ジャンパー1着 12月11日に独居者調査中の警察官(京都府警)が遺体を発見し、事件発覚。 伏見事件 (2)(E事件) 12月5日ごろ21時ごろ 京都府京都市伏見区中島流作町「鴨川橋」下の小屋 男性E(60歳没)廃品回収業 何も持ち去らず逃走(下記参照) 高槻事件(F事件) 12月7日ごろ20時ごろ 大阪府高槻市南芥川町23番15号「高槻橋」下の小屋 男性F(53歳没)土建手伝い 古谷の逮捕後に自供で発覚。 西宮事件 12月12日 兵庫県西宮市大浜町6番地海岸防潮堤外側の小屋 廃品回収業・男性2人男性G(51歳没) 男性H(69歳没) 事件直後に現行犯逮捕(後述)。 X事件 - バラックを訪れ、警察官を装って所持する金品について尋問をしたりしながら、その場にあったタオルでXの首を絞め、失神させて金品を奪った。X事件の翌日(8月20日)、古谷はXから奪った証書を換金して得た現金58万円を手に故郷・対馬へ帰郷し、8月22日 - 26日まで対馬に滞在。その後、東は伊豆半島から西は四国まで(日本海側も含めて)無目的な観光旅行を続けた。 垂水事件 - 各地を旅行し、所持金が尽きたところでAの小屋を訪れ、「泊めてくれ」と頼んだが、「泊まりたければ旅館か警察に行け」と断られ、Aを殺害して金品を奪うことを決意。やにわに拳でAの鳩尾を殴りつけてうつぶせに押さえつけ、右腕で首を絞め上げ、小屋にあった紐(昭和42年押第235号の25)でAの首を絞めて窒息死させ、金品を奪った。またAが調理していたうどんをその場で食べ、外から施錠して逃走した。その後、舞子の海岸の建物で泊まり、翌日(10月31日)朝5時ごろに起き、垂水を発って東方へ歩き、同日21時ごろに山崎で一泊した。 大津事件 - Bを殺害して金品を強取するため、やにわにBの右腕を逆手にとって後方にねじ上げ、小屋にあった紐(昭和42年押第235号の28)でBの両手首を後ろ手に縛り上げた。そして自身の右上でBの首を絞めて失神させ、小屋にあったタオル(昭和42年押第235の27)で首を絞めて殺害し金品を奪った。当時は現金がほとんどなかったため、B宅を素手でかなり物色したが、これが原因で指紋を現場に6個残し、うち砂糖壺に残された指紋が身柄特定のきっかけになった。 Y事件 - 橋の下で掘立小屋に1人で住んでいた男性Yに刃渡り約30 cmの刺身包丁を突き付け、所携のネクタイ(昭和42年押第235号の1)でYの両手首を縛り上げ、抵抗を抑圧。その上でYの上着・ズボンのポケット内を物色したが、偶然Y宅を訪れた男性ら2人に発見されたため金品を奪えず、そのまま逃走した。 福岡事件 - 男性C宅(海岸に面する松林の中に建っていた一軒家)に侵入し、Cを殺害して金品を強取しようと決意。Cに刺身包丁(刃渡り約30 cm)を擬して取っ組み合いとなったが、包丁で左前胸部・右腋窩部などを突き刺して失血死させ、金品を奪った。そして、この時まで古谷は垂水事件で被害者Aから奪ったズボンを穿いていたが、このズボンのほころびに気付いたために脱ぎ捨て、Cから奪ったズボンと穿き替えた。本事件でも遺留品(給料袋)に古谷の指紋が残されていた。唯一家族居住の被害者だったが、妻子の留守中の犯行だったため、家屋の立地条件なども含め、他の事件と類似と見なされた。事件前、被害者C宅やその周辺(西鉄新宮駅など)で40歳代 - 50歳代の不審な男(地下足袋姿)が複数の近隣住民に目撃されていた。事件の約2日前には、C宅を「営林署の岡」と名乗る40歳前後の男が訪れ、在宅していたCに対し「付近で松を盗伐する者がいる」と言っていたが、当時の福岡営林署に「岡」という職員はおらず、同署職員が現場付近を巡回した事実もなかった。 11月末には、古谷の身元引受人を担当していた「熊本自営会」の会主男性宛に、福岡県大牟田市内在住の女性から「9月末に香川県の琴平山を旅行した際に古谷さんから親切にしていただきました」という礼状に加え、古谷が女性とその同僚2人とともに4人で映った記念写真が届いたため、福岡県警特捜本部がこの女性から当時の古谷の行動について事情聴取した。 伏見事件(D事件・E事件) - 京都市伏見区内(鴨川の河畔)で相次いで発生。D事件 - 小屋の中でやにわにDの胸部・鳩尾を拳で強打し、Dが後方へ転倒したところ、両手を逆手に取って後方にねじ上げた。そして小屋にあった電気コード(昭和42年押第235号の29)でDの首を絞めて窒息死させ、金品を強取。Dのバラックを施錠した上で堤防を上り、やや東方を走る京阪国道(国道1号)を500 mほど下った工事現場の小屋の中で就寝した。同事件翌日(12月4日)、古谷はDから奪ったジャンパーと、福岡事件で被害者Cから奪ったトランジスタラジオ・腕時計を第三者に売却した。 E事件 - 小屋の中でいきなり拳でEの胸部を一発殴り、Eの両手を逆手に取って後方にねじ上げ、Eをうつぶせに押さえつけた。そして右腕でEの首を絞めて失神させ、小屋にあった毛糸首巻で首を絞めて窒息死させた。しかし小屋を物色していたところ、最も嫌悪していた蛇の抜け殻を見たため、何も持ち去らず逃走。 高槻事件 - 伏見事件2件の直後、大阪府高槻市へ移動。Fの小屋で格闘の末、拳でFの鳩尾を強打して転倒させ、馬乗りになって右手で首を絞めて失神させ、小屋にあったシャツ(昭和42年押第235号の41)の袖で首を絞めて窒息死させた。犯行後、壁にかかっていた上着・ズボンなどを物色したが、目ぼしいものを発見できず、何も持ち去らず逃走。またこの時、現場にそれまで持ち歩いていた青写真の設計図を遺留している。 西宮事件 - 金品を強取するため、同じ小屋の中で寝ていた2人(被害者G・被害者H)の頭部をいきなりハンマー(昭和42年押第235号の30)で滅多打ちにし、脳挫傷により死亡させた。 一連の事件のさなか、古谷は新聞・ラジオの報道に気を配ることも、旅館に宿泊することもなく、長距離を徒歩で移動していたが、この行動故に急行列車・旅館などを対象とした警察の一斉検索にはかからず、かえって警察の意表を突く結果となった。
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連続殺人
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「バークとヘア連続殺人事件」の記事における「連続殺人」の解説
1827年までバークとその情婦ヘレン・マクドゥガルは、ヘアがエディンバラに営む下宿屋に間借りするごく普通の下宿人だった。以前同じ職場ユニオン運河(en:Union Canal)で働いたときに面識があったか否かは不明である。ヘアの後の証言によると最初に売った死体は彼に家賃4ポンドを滞納したまま死んだ年老いた退役年金受給者だった。2人は1827年11月に棺桶から死体を盗み出しエディンバラ医学校に7ポンドで売った。これが彼らのエディンバラきっての解剖学教師ロバート・ノックス博士との出会いとなった。 バークとヘアの次の被害者は病弱な下宿人、粉引きのジョセフだった。2人は彼にウイスキーをどんどん勧めた後、窒息死させた。他に病気がちな下宿人はいなかったので、町に獲物を探しに行くことに決めた。1828年2月には年金生活者のアビゲイル・シンプソンを帰省の前日一晩中飲みに誘い、ジョセフと同じ手口で殺した。死体は新しかったので15ポンド貰えた。ヘアの妻マーガレットは女性を居酒屋に誘い込み、無理に酒を飲ませた後で夫を呼んだ。次にバークは娼婦のメリー・パターソンとジャネット・ブラウンを連れ込んだ。しかしブラウンはバークとマクドゥガルが口論をしているときに席を外した。彼女が戻るとパターソンはバークと一緒に出かけたと告げられた。翌朝、医学生の数人には死んだ娼婦が誰であるか分かった。おそらくパターソンの世話になったことがあったのだろう。 次の被害者は、バークの知り合いのエフィーという乞食女であった。バークは警察から知り合いであると言って彼女を引き取った。1時間後には医学校に死体が届けられ10ポンドが支払われた。 次の被害者2人は老女と耳が聞こえない少年だった。バークとヘアは少年については口論したが、結局バークが骨の折れる仕事を片付け、それぞれ8ポンドで売り払った。続く2人はバークの知り合いオストレー夫人とマクドゥガルの親戚アン・マクドゥガルだった。 続いてヘアは老娼婦メリー・ハルダンに接触した。娘のペギーが母の行方を探したが、結局彼女も母親に続き医学校の解剖台の上に横たわることになった。しかしメリー・ハルダンは近所でよく知られていたのでこの失踪は知られずには済まなかった。次の被害者はもっと有名だった。殺害当時18歳の「ダフト・ジャミー(愚かなジャミー)」と呼ばれる足が不自由な精神障害の若者だった。彼は抵抗したので2人がかりで殺した。少年の母親が息子の行方を探し始めた。翌朝ノックス博士が死体に被せられた覆いを取ったとき、何人かの医学生はそれがジャミーと気付いた。学生に死体を見せた後ノックスは頭部と足を切断した。ノックスはこれがジャミーであることを否定したが、顔から解剖を始めなければならないのは明らかであった。 最後の被害者はマジョリー・キャンベル・ドチャーティ(訳注スコットランドには多い名)だった。バークは自分の母親もドチャーティだといい下宿屋に誘い込んだ。しかし、ジェイムスとアン・グレイが同室していたので待つ必要があった。その夜グレイ夫妻が出かけた後、近所の人たちは争う音を聞いた。
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連続殺人
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「アンドルー・クナーナン」の記事における「連続殺人」の解説
クナーナンによる連続殺人は、以下の5人が確認されている。 ジェフリー・トレイル (Jeffrey Trail) 28歳 元アメリカ海軍士官、プロパン販売会社のセールスマン デイヴィッド・マドソン (David Madson) 33歳 建築設計士 リー・ミグリン (Lee Miglin) 72歳 不動産開発業者 ウィリアム・リース (William Reese) 45歳 墓地管理人 ジャンニ・ヴェルサーチ (Gianni Versace) 50歳 イタリアン・ファッション・デザイナー 1997年4月25日、クナーナンは片道分の搭乗券を入手して、サンディエゴからミネソタ州ミネアポリスに飛行機で移動した。ミネアポリスには、サンディエゴ時代からの友人だったジェフリー・トレイルと、かつて恋人だったデイヴィッド・マドソンが住んでいた。 マドソンは、サンフランシスコのベイエリアに友人を訪ねていた時にクナーナンと知り合いになった。マドソンとクナーナンは恋人同士になったが、クナーナンの背後には知りえない暗い部分があって、マドソンは事件の6ヶ月前にはクナーナンに別れを告げていた。トレイルはミネソタのプロパン販売会社に勤務するため、マドソンの近くに住むようになっていて、マドソンとトレイルは交友関係を保持していた。またトレイルはクナーナンに対する恐れを友人達に打ち明けていた。 週末の旅行という名目でマドソンの家に滞在していたクナーナンは電話をして、4月27日にトレイルをマドソンの住むロフト・アパートに呼び出した。2日後に警察はマドソンのアパートでトレイルの死体を発見した。4月27日にクナーナンがトレイルと言い争っていて、トレイルの頭部をハンマーで何度も殴打して殺害したうえで、死体をクローゼットにあった敷物で巻いて置き去りにしたとみなされている。 1997年5月3日ミネソタ州ラッシュ・シティ近くの"Rush Lake"の東岸で、マドソンの遺体が発見された。背後から1回、頭部を2回撃たれた状態で死亡していた。マドソンとクナーナンは、それまで数箇所で行動を共にしていたのを目撃されていた。使用された銃はトレイルの名義でライセンスを取得したもので、どこかの段階でクナーナンがトレイルの住居から持ち出したものと思われている。 クナーナンはマドソンのジープを運転して逃走し、1997年5月4日イリノイ州シカゴで、著名な不動産開発業者であった72歳のリー・ミグリンを殺害。ミグリンはダクト・テープで手足を固定され頭にも巻かれていた。そしてドライバーで20回以上刺され、鋸でのどを切られていた。また2000ドルと1994年製のレクサスが無くなっていて、マドソンの赤いジープ・チェロキーがミグリンのタウンハウスで発見された。 ミグリンを殺害した後、クナーナンは数日間ニューヨークに滞在していた事実が明らかになっている。その後ミグリンのレクサスを運転しながらペンシルヴェニア州フィラデルフィアのエリアでクナーナンは車内の電話を2度使用した。翌日クナーナンは、自分の通話がフィラデルフィアの警察に把握されていることをニュースで知ったと思われている。 ニュージャージー州ペンズヴィルの"Finn's Point National Cemetery"で4人目の犠牲者である、墓地管理人ウィリアム・リースが頭部を撃たれた状態で発見された。1997年5月9日リースの死体の側で、ミグリン所有のレクサスが発見された。クナーナンはリースの赤いピックアップトラックでフロリダ州マイアミビーチに行って、5番目の殺人事件までの2か月間、"Normandy Plaza Hotel"に隠れるように滞在していた。またクナーナンは警察が古物商の記録を定期的にチェックしているのを知っていたにもかかわらず、盗品を現金化するために自分の本名を使用していた。この事件後の6月21日、FBIはクナーナンをFBIの10大最重要指名手配リストに載せた。 ヴェルサーチ殺害の4日前にクナーナンを逮捕出来る可能性があった。サンドイッチ店の店員が、注文に来た男をクナーナンと確認して警察に通報したが、警察が到着した時にはいなくなっていた。 1997年7月15日、クナーナンはイタリアのファッション・デザイナーであるジャンニ・ヴェルサーチをマイアミ・ビーチの別荘の正門で2発撃って殺害し、目撃者が捕らえようとしたが逃げられてしまった。リースから奪った車は近くの駐車場で警察によって発見され、衣服、代替パスポート、殺人事件の新聞切抜きが車内に残されていた。
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第二次世界大戦でナチス・ドイツによってフランスが占領下に置かれると、プショーは迫害を恐れたユダヤ人富裕層に対し25,000フランの報酬で国外脱出を手配すると宣伝。彼らをルシュール街21番地にある自宅兼医院に招いて監禁した上で毒ガスで殺害。死体を焼却して衣服や貴重品を奪う犯行を繰り返した。被害者の中には裕福なユダヤ人だけでなく、対独活動に従事していた知識人やパリの暗黒街で暗躍していたギャングなどの犯罪者も多数含まれていた。プショーによって「国外脱出」に成功した人の数が増えるに従い、占領下のパリで治安維持に当たっていたゲシュタポの注目を引く。プショーの担当となったゲシュタポの辣腕捜査官、ロベルト・ヨドクム親衛隊少佐は、スパイとして使っていたユダヤ人をプショーの元へ送り込み内偵を行うが、感づかれたプショーによりスパイを早々に始末されただけでなく、その後は一切の尻尾を掴ませない狡猾ぶりを見せつけられる結果となった。 その後もプショーはゲシュタポを出し抜きつつ犯行を重ねた。プショー本人の自白によると、63人を殺害したという。1944年3月11日、プショーの屋敷の煙突から悪臭交じりの黒煙が立ち上っている、との近隣住民からの通報より警察が訪れたところ、地下室で火災が発生しており、直ちに消防隊による消火作業が行われた。火元を検分した消防隊員は青ざめた様子で警官たちに「ここから先は君たちの仕事だ」と告げた。警官たちが地下室を検めたところ、大量の焼け爛れたバラバラ死体が発見されたのだった。そこへ用事から帰ってきたプショーは警官に事情を訊かれ、「レジスタンスが処刑した対独協力者の死体焼却の手助け」と弁明して警官がこれに納得し、後日警察で改めて事情を説明すると言い残してそのまま失踪してしまった。 警察は自宅の捜索を進め、そこが巧妙に設計された殺人工場であることが明らかとなった。診療室の奥に三角形の小部屋があり、入って右側の壁に扉と呼び鈴があったがダミーで、どこにも通じていなかった。また、この小部屋の壁は防音壁となっており、外部へは一切音が漏れないようになっていた。そして、診察室側の壁には鎖と首輪がぶら下がっており、反対側の壁には覗き穴が作られていた。プショーはこの小部屋に被害者を誘導すると密閉した上で毒ガスを注入、被害者が苦悶の末に絶命する様を観察していたのである。さらに中庭には1メートルもの厚さの石灰の山があり、そこから人体の一部が大量に発見された。結局、警察の徹底した捜索により、多数のバラバラ死体の他に、犠牲者のスーツケースや私物などを発見。館での連続殺人の惨状を確認しプショーを指名手配するが、すでに姿をくらました後で後の祭りだった。 大戦末期の混乱期ということもありプショーの足取りは全く掴めなくなっていた。しかしパリ解放後、ある新聞に「マルセル・プショーは、ナチスの手先である」という記事が載ると、これに強く反論する手紙が投稿された。筆跡を鑑定するとフランス国内軍の「アンリ・ヴァレリー大尉」であることが判明。「アンリ・ヴァレリー大尉」は1944年10月31日に逮捕され、プショー本人であることが確認された。
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「ウィリアム・ユネック」の記事における「連続殺人」の解説
ユネックはベルギー領コンゴの警察官あるいは憲兵だった。最初の殺人はマハギ(Mahagi)の街の近くで1954年1月1日に行われ、一時間半に満たない間に斧で21人を殺害し、その他大勢を負傷させた。ユネックはその後イギリス領タンガニーカ(現タンザニア)に逃げ込んで、そこで正体を偽りながら警察官の仕事を得て、新しい暮らしを始めた。 3年後、おそらく上司との確執をきっかけとして、ユネックの二度目の殺人が1957年2月11日の早朝に始まった。彼は盗んだ警察仕様のリー・エンフィールド・ライフルに弾薬50発、それと斧で武装して、ムワンザから南東に65kmほど離れたマランパカ (Malampaka) の村で人々を殺し始めた。ユネックは数件の家に侵入し、中で目についた人間すべてに銃弾を浴びせた。 12時間のうちに、ユネックはライフルで男性10名、女性8名、子供8名を射殺。斧で男性5名を殺し、ナイフで男性1名を刺殺。閉じ込めてからの放火で女性2名と子供1名を焼殺し、15歳の少女を絞殺した。二度目の大量殺人の犠牲者は36名になった。 ユネックは着ていた警察の制服から、犠牲者から盗んだ服に着替えると逃亡した。死者の中にはユネック自身の妻もいた(焼殺)。
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連続殺人
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「フリッツ・ハールマン」の記事における「連続殺人」の解説
1919年から1924年にかけて、ハールマンは少なくとも24人を殺害している。ハールマンの犠牲者はハノーファー中央駅をうろついている若い男性浮浪者や男娼だった。ハールマンは彼らを自分のアパートに誘い、男色行為中に犠牲者の喉を噛み破って殺害した。噂ではハールマンが犠牲者の肉を闇市場で缶詰の豚肉として売り歩いたとされているが、これを裏付ける証拠は無い。明らかになっているのは近所の女性がレストランを所有し、彼から肉を買っていたという事だけである。TruTV Crime Library(#外部リンク参照)は犠牲者は24人ではなく27人であると主張している。牧逸馬の著書によると裁判記録にある犠牲者数は28人である。但しハールマン自身は少なくとも48人は殺したと豪語していた。 彼の共犯者で同棲相手でもあったハンス・グランスは慈善団体に犠牲者の服を寄付したり安く売りさばいたりした。(ハールマンは古着商人でもあった。)逮捕後、彼らが保管していた古着全てが押収され、全国の行方不明のティーンエイジャーの家族達は衣類を確認するためにハノーファーに向かわなければならなかった。グランスの着ていた服は犠牲者のものであった。しかしハールマンはグランスがハンサムな少年を殺すように唆しはしたが、それ以外は殺人には関与していないと証言した。 逮捕のきっかけはハールマンがライネ川に廃棄した多数の白骨化遺体が下流に流れ着いた事である。彼の裁判は見せ物のようになり、ドイツにおいて主要なマスコミが大々的に報じた初の大事件の1つだった。当時はまだ「シリアルキラー(連続殺人犯)」という言葉は存在せず、大衆や報道機関はこの事件を表現する言葉を見出せなかった。彼は「狼男」、「吸血鬼」と称されると同時に「性的サイコパス」とも呼ばれていた。しかし明らかにされたハールマンの所業の残虐性とは別に、ドイツ社会を更に揺るがした不面目な事実は、警察の事件に対する関与であった。ハールマンは他の犯罪者をしばしば捜査官に引き渡していた警察の情報提供者だった。ハールマンが逮捕されるまで、警察は探していた連続殺人犯が彼らのよく知る人物で、目と鼻の先にいる事に全く気付かなかった。 ハールマンは1924年12月19日に有罪判決を受け、1925年4月15日早朝にハノーファー地方裁判所の刑務所でギロチンによる斬首刑に処された。グランスは24件の殺人の1つを教唆したとして有罪となり、同様に死刑を宣告されたが、グランスの無実を明言するハールマンの手紙の開示により、2審では12年の禁固刑となった。グランスは刑期を勤め上げた後、1975年に亡くなるまでハノーファーのリックリンゲンに住み続けていた。 処刑後ハールマンの頭部は脳の構造を調べるため、科学者により保存された。ハールマンの頭部は現在ゲッティンゲンの医科大学に保管されている。また脳から切り取られた4つの断片がミュンヘンに保存されている。 事件はドイツで死刑、精神疾患のある犯罪者に対する正しいアプローチ、警察の捜査方法、同性愛について多くの議論を引き起した。
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「連続殺人」の例文・使い方・用例・文例
- その連続殺人犯は刑務所で電気死刑に処せられた。
- その二人は連続殺人犯を捕まえる。
- この映画のテーマは連続殺人事件です。
- 連続殺人.
- 妻が連続殺人の犯人だと知って愕然とした.
- 連続殺人犯は感電死した
- 連続殺人
- 連続殺人犯
- 連続殺人犯の心理学的なプロフィール
- 殺人が短い期間以内で起こる連続殺人犯
- 無差別攻撃が恐怖感を広めているので,これらの連続殺人は一種のテロ行為だとも言える。
- 若いころに家庭内暴力を受けていた連続殺人犯を演じたのだ。
- 19世紀末,ロンドンで残忍な連続殺人が起こる。
- そのころ,東京で連続殺人が起こる。
- その一方で連続殺人事件が起こり,システムエンジニアの津(つ)島(しま)直(なお)紀(き)(永(なが)山(やま)絢(けん)斗(と))がその殺人の罪で逮捕される。
連続殺人と同じ種類の言葉
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