航空本部とは? わかりやすく解説

航空本部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/04/16 03:48 UTC 版)

航空本部(こうくうほんぶ)とは、大日本帝国陸軍大日本帝国海軍に存在した航空機運用のための部局。および、宇宙航空研究開発機構(JAXA)に存在した航空技術の研究開発のための部局。




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航空本部

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山本五十六」の記事における「航空本部」の解説

1928年昭和3年3月帰国後、8月から軽巡洋艦五十鈴艦長務め水雷学校での講義将来海軍航空主兵となること、対米作戦では積極作戦をとりハワイ攻めるべきと発言している。4ヵ月後に多段式空母赤城艦長就任着艦失敗しそうになった飛行機に自ら飛びつき、山口多聞中佐と共に飛行甲板から落ちるのを防ぐなど航空全力注いだ佐官時代愛煙家だったが、空母「赤城」艦長時代航空機搭乗員が禁煙宣告されたが無視していると、山本は「私も煙草好きだが、日本の為だ。君ばかりに止めてはおかぬ」として禁煙宣言したそれ以来山本煙草を吸わなかった。 1929年昭和4年11月海軍少将進級すると共にロンドン軍縮会議次席随員として参加した海軍随員であった山本山口多聞軍縮案に強硬に反対日本側代表は混乱した。最も強硬に対米7割を主張し首席全権若槻禮次郎を困らせ、大蔵省から派遣され賀屋興宣が、財政面から軍備大き負担には堪えられないという旨の意見言おうとした際には「賀屋黙れ、なお言うと鉄拳が飛ぶぞ!」等と怒鳴りつけて賀屋を黙らせたとも言われる。賀屋は、山本について「聞き上手で話やすい人。真に度胸のある、正し素直な人。いつ論じ合って後味の悪い事がない」と語っている。 この軍縮条約巡って海軍内に艦隊派条約派という派閥争い生じ山本含めた海軍人事大きな影響与え、この一件が、山本艦隊派から同志であると受け止められ一因となり、山本出世きっかけにもなった。結局外交団代表は山本意に反して軍縮条約調印海軍士官学校同期生(第32期クラス会で、山本は「適任ではなかった」と予備交渉における苦悩語っている。失意山本海軍辞めるという噂さえ流れた。だが山本立ち直り軍令部次長末次信正対し劣勢比率押しつけられた帝国海軍としては、優秀な米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈な一撃加え然る後全軍挙げて一挙決戦出ずべきである」と進言した。 1930年昭和5年12月海軍航空本部技術部長に就くと航空主兵を強力に推し進める同時に未熟だった日本海軍航空機発展尽力した外国機の輸入研究積極であったが「外国機の輸入は我航空科技術恥辱と思わねばならぬぞ。それは日本科学試験台なのだ。若し国産機が外国機の単なる模倣終わったら、欧米科学降伏したものと思え、その替わり、それを凌駕する優秀機が作られたら、勝利日本科学の上輝いた思え」と技術者達を激励している。1932年昭和7年)、山本海軍航空機の条件として、国産、全金属単葉機3つ掲げた複葉機から単葉機への移行中に単葉機速度増え着艦距離が延びることが問題になったが、山本母艦発着甲板の方を長くせよと指導した1933年昭和8年)夏、柴田武雄によれば横須賀海軍航空隊横空研究会において、日高実保(大尉海兵50期)が雷撃訓練対空砲火や敵戦闘機妨害概念取り入れるよう主張し遠距離での発射見越した高々度高速発射砲や魚雷改善求め続いて柴田大尉戦闘機機銃射程延長照準器兵器弾薬発明必要性訴えると、山本立ち上がり2人意見言語道断否定し、「そもそも帝国海軍こんにちあるは、肉迫必中伝統的精神にある。今後、1メートルたりとも射距離延ばそうとすることは絶対に許さん」と叱責したという。柴田は「上に山本のようなわけのわからないのがいると必ず負ける、歴史無視した精神偏重で、戦闘機技術開発努めるべきだったのに山本には能力英知欠けていた」と批判している。 同年10月第一航空戦隊司令官となり、空母「赤城」座乗した。故郷長岡希望22名を「赤城」に招き、自ら艦内案内したこともある。 1934年昭和9年)「赤城」の第一航空戦隊研究会横空分隊長源田実大尉は、敵の航空母艦先制制圧するために急降下爆撃機善用すること、航続距離延伸操縦性軽快さ、戦闘機としての流用等を考慮した単座急降下爆撃機」を考案して、戦闘機攻撃機半数ずつをこれと入れ替える意見出した際、山本源田の言うように飛行機攻撃使用すべきであるとしつつ、航法上の安全性からやはり二座になると却下した同年9月「俺も軍人だからね。どうしてもアメリカとやれといわれればアメリカもやってごらんにいれたいね。……俺の夢なんだからね。空母10隻、航空機800機を準備するそれだけ真珠湾マニラ空襲し、太平洋艦隊アジア艦隊を潰すことは確実にできるんだよ」「少なくとも一年間は、太平洋アメリカの船と飛行機存在しないってわけさ。それだけ戦争はやって見せる」と駐米大使斉藤博語ったとする主張がある。実際には、当時真珠湾という日本語存在せず真珠港呼んでいたし、アメリカ海軍真珠湾ではなくサンディエゴ拠点としていた。詳細真珠湾の項参照9月20日山本第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉海軍首席代表として日本離れた対米強硬派軍事参議官加藤寛治は「…見送盛也、但シ山本シク上ボセ気味、大ニ托スルニ不足…」と日記書いている。山本政府意を受けて「戦艦空母全廃兵力量の各国共通制限設定」を主張し列強交渉団と互角に渡り合う。 ただし、「戦艦空母全廃」は会議決裂日本政府意図したものであり、山本出発する直前9月7日ワシントン海軍軍縮条約破棄決定している。このような状況の元で欧米交渉中、同期親友堀悌吉予備役編入される大角人事があって山本気力失い、またアメリカ条約締結について冷淡であり、結局予備交渉中断した。堀への手紙で山本日本対外強硬論への不満と苛立ち語り、また愛人の手紙にも「自分がただ道具に使はれたに過ぎぬやうな気がして」と述べ、「誠に不愉快である」と心境明かしている。ロンドンからかつての部下宛てた手紙には「英米叩頭せしむるの日必しも遠からざるか如く被感候 海軍としては何はともあれ航空躍進こそ急務中に急務なり」と書いた。 ロンドンから帰国直前1935年1月日独間の親善のため山本ベルリンヒトラー面会させること、ソ連対象にした日独提携日本同意するかどうかを探ることを任務としたリッベントロップの命によって、ドイツ技術日本への移転大きな役割果たしていたシンツィンガー・ハック商会設立者ハインケル社代理人日独協会理事フリードリヒ・ハック訪問受けた山本ヒトラーとの面会了承したが、松平恒雄駐英大使武者小路公共駐独大使が、日本海軍高官ヨーロッパで孤立するドイツトップといきなり会うことを危惧したため実現しなかった。山本ベルリンリッベントロップエーリヒ・レーダー海軍統帥部長官や日独協会会長のパウル・ベンケ提督らと会談した1934年末にはハインケル社日本海軍の間に急降下爆撃機技術売却交渉始まっており、交換条件として航空母艦赤城技術提供をドイツ海軍要望していた。急降下爆撃機技術導入空母艦載機攻撃能力一新かかった重要課題であり、九九式艦上爆撃機完成結実したまた、赤城技術情報得たドイツ海軍空母グラーフ・ツェッペリン建造着手1938年12月進水式行った日独間の対ソ提携の件はその夏以降、駐独陸軍武官大島浩リッベントロップの間で進められることになった1935年昭和10年2月シベリア経由日本に帰国東京駅降りた山本海軍大臣大角岑生外務大臣広田弘毅等が出迎えた山本海軍辞める意思持ったが、堀に慰留された。山本はしばし故郷長岡休養し母校学生達と交流する第二次ロンドン海軍軍縮会議赴く軍事参議官永野修身から随行するよう要請されたが、先の予備交渉懲りた山本固辞した4月故郷長岡の阪之上小学校演説行い日本人として重要な恩として「天皇の恩、親の恩、師の恩」を挙げ、「世の中立って、国の為に尽くすことが、先生対す生徒の、第一恩返しになる」と語っている。 12月海軍航空本部長任命される横山大観から絵の呈上申し出があった際には、全力勤務にあたるため芸術にひたる余裕なしと述べて断っている。空軍独立論について、山本陸軍主導権を握ることを懸念して強硬に反対した。のちに太平洋戦争島嶼戦において、陸海軍航空隊との指揮権統一する提案出た際も、一貫して反対している。海軍航空本部総務部長務めていた時、直接部下だった草鹿龍之介山本のための機密費接待費捻出苦労していることを知ると、山本は自ら海軍省交渉乗り出して500円当時価格)を獲得し草鹿渡している。航空本部長時代手相骨相鑑定家水野義人海軍航空本部嘱託採用し山本航空搭乗員採用試験の際に応募の手相・骨相鑑定させ、採用・不採用参考としている。 この頃欧米列強新世代戦艦ポスト条約型戦艦)の開発建艦一斉に開始し日本大和型戦艦建造計画をたてる。山本は航空本部教育部長・大西瀧治郎大佐と共に反対論唱え艦政本部対立した山本航空主兵論艦政本部長中村良三大将大艦巨砲主義論の対立結論出ず軍令部総長伏見宮博恭王仲裁で、翌年7月高等技術会議大和型2隻の建造決まり③計画における3トン正規空母翔鶴型航空母艦)2隻の建造決まった山本は「砲戦が行われる前に飛行機攻撃により撃破せられるから、今後戦闘には戦艦無用の長物になる」と反対し、大和型戦艦建造携わった福田啓二によれば山本福田の肩に手を置き「どうもを差すようですまんがね、君たち一生建命やっているが、いずれ近いうちに失職するぜ。これから海軍空軍が大事で大艦巨砲いらなくなると思う」と語った福田不沈艦は無理でも沈みにくい船を作る反論したまた、山本九六式陸上攻撃機など攻撃機量産航空戦力攻撃力強化したが、大西瀧治郎と共に攻撃力ならない戦闘機軽視したことで、戦闘機無用論者と見なされている。 1936年昭和11年2月二・二六事件では、反乱賛同する海軍青年士官一喝して追い返し重傷負った侍従長鈴木貫太郎のために医者手配している。総理大臣岡田啓介救出にも米内光政と共に関わった。二・二六事件における米内の対応を山本高く評価し後日永野修身海軍大臣辞任する際、山本米内後任として推薦している。 同年11月長岡での講演会では、海軍辞めたのち長岡青年の教育を行う夢を語っている。

※この「航空本部」の解説は、「山本五十六」の解説の一部です。
「航空本部」を含む「山本五十六」の記事については、「山本五十六」の概要を参照ください。

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