ロンドン‐ぐんしゅくかいぎ〔‐グンシユククワイギ〕【ロンドン軍縮会議】
ロンドン海軍軍縮会議
ロンドン軍縮会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:08 UTC 版)
中将の時に海軍次官を務め(1928年(昭和3年)12月10日- 1930年(昭和5年)12月1日)、1930年1月 - 4月に開催されたロンドン海軍軍縮会議を妥結させるために奔走した。反対勢力から暗殺される危険があったが、軍務局長・堀悌吉、海軍省先任副官・古賀峯一と共に、暗殺される覚悟で所信を貫いた。軍縮会議全権となった海軍大臣の財部彪が不在のため、山梨が海軍省を預かり、岡田啓介(前・海軍大臣、軍事参議官)の助力を得て、艦隊派の軍令部次長・末次信正をして「山梨のごとき知恵ある人物にはかなわず」と言わしめる活躍であった。 ロンドン海軍軍縮会議の際に反対派が持ち出した理論が統帥権干犯であるが、山梨の見解は下記の通り。 統帥権問題に対する海軍の全般的な態度は、もともと、憲法解釈は枢密院の権限であるのにかんがみ、われわれが憲法論などを言ってみたところで世間の物笑いになるだけであり、アメリカの態度、予算の問題などで頭がいっぱいで、海軍省及び軍令部において、考えたことも、言ったこともなく、興味もなければ研究したこともなかった。 — 海上自衛隊幹部学校での講話の第三話「ワシントン・ロンドン軍縮会議」より、昭和36年11月6日・7日講話、山梨勝之進
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