堀悌吉
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堀 悌吉(ほり ていきち、1883年〈明治16年〉8月16日 - 1959年〈昭和34年〉5月12日)は、日本の海軍軍人、実業家。
注釈
- ^ 悌吉の義父となった堀正次は、杵築煙硝倉の士族[16]。
- ^ 堀(首席)と塩沢(次席)に次ぐ3位の松下薫(中将[22])は5387点/6000点(89.8%)であり[21]、4827点/6000点(80.5%)で真ん中あたりの席次であった[23]。
- ^ 渡辺滋は「堀が昭和7年12月に補された第1戦隊司令官は閑職と看做されるポストであったが、同年7月から8月に急性虫様突起炎で入院していた堀に対する人事上の配慮と考えられ、第1戦隊司令官への補職は『左遷』ではない。現に、堀の前後の第1戦隊司令官は、予備役編入されずに次のポストに就いている」という趣旨を述べている[8]。
- ^ 「唯(ただ)纔(わずか)に」
- ^ 堀の主治医であった工藤貞雄は、青森県出身[60]、堀と同じく明治16年(1883年)の生まれ[60]、医科大学や医学専門学校を経ず、明治39年(1906年)[61]に難関で知られた医術開業試験に合格して医師となり[60]、海軍軍医を志して明治44年(1911年)12月4日付で海軍少軍医(後の海軍軍医少尉)に任官した[62]。堀の戦艦「陸奥」艦長在任中(昭和2年〈1927年〉12月-昭和3年〈1928年〉12月)に「陸奥」軍医長を務めて堀の知遇を得た工藤は、昭和4年(1929年)12月25日に海軍軍医中佐で予備役に入り[63]、昭和8年(1933年)に世田谷区新町(堀は、ほど近い世田谷区上馬に終の棲家を構えていた)で「工藤医院」を開業し、堀が昭和34年(1959年)に死去するまで主治医を務めた[64]。
- ^ 堀は明治43年11月に海軍砲術学校高等科学生(7期)を卒業しているが、優等卒業者(首席)は、兵32期の同期生である塩沢幸一であった[71]。堀の回想によると、海軍大学校乙種学生で成績不振であった塩沢に、海軍砲術学校高等科の首席を譲った結果、堀は4位に甘んじたという[69]。
- ^ 出典([81])には「船員」とのみ記されているが、文脈から、「ボーイ」ではなく、「航海士などの商船士官(海軍士官と同様の服装であり、一目で分かる)」であったと思われる。
- ^ 阿川弘之『山本五十六』を参照。
- ^ a b 出典の「くの字点」(縦書き)を、「々々」(横書き)に置き換えて引用した。
- ^ 堀は大正7年12月から大正10年9月まで海軍省軍務局第1課局員。豊田貞次郎は大正8年12月から大正9年5月まで海軍省軍務局勤務、大正9年5月から大正12年5月まで海軍省軍務局第1課局員。
- ^ 和波豊一 中将(兵32期)は、和波孝禧(ヴァイオリニスト)の祖父[102]。
- ^ 兵32期で大将に親任されたのは、塩沢幸一・山本五十六(元帥)・吉田善吾・嶋田繁太郎の4名。
- ^ 山口千代子は、明治31年(1898年)6月の出生[108]。堀と結婚した大正7年(1918年)5月25日[109]における満年齢は20歳。
- ^ 堀の長女と次女が進学した東京府立第三高等女学校は、才媛が集まることで知られていた[113]。現:東京都立駒場高等学校。
- ^ 日露戦争の勃発により遠洋航海は中止。
- ^ 「海軍軍令部」は、昭和8年10月1日付で「軍令部」に改称された[128]。
出典
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