陸海軍航空隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 02:05 UTC 版)
「ドーリットル空襲」の記事における「陸海軍航空隊」の解説
三沢海軍航空隊第十一航空艦隊第二六航空戦隊の木更津基地からは、一式陸上攻撃機部隊が米艦隊捜索に発進した。第四索敵機(有川俊雄中尉)が09:30にB-25単機(国籍不明の双発飛行艇らしきもの、西進を報告)を発見したのみで、米艦隊発見には至らなかった。この陸攻は、アメリカ軍の機動部隊に相当接近したと思われ、エンタープライズは50 km まで接近した偵察機の存在を記録している。午後12時30分、第十一航空艦隊は敵艦隊の位置がわからないまま、魚雷を装備した一式陸攻30機(第六空襲部隊22機、三沢空8機)、零戦12機、内地に帰還していた空母加賀所属の零戦12機を米艦隊発見地点に向かわせた。しかし米艦隊は既に反転しており、出撃は空振りに終わった。一式陸攻3機が墜落と不時着で失われ、零戦1機も不時着して大破した。各基地の航空隊は19日以降も索敵を行い、大部分は米軍機動部隊攻撃に備えて待機したが、もはや出番はなかった。 B-25の大半の侵入ルートにあった水戸陸軍飛行学校は、本来航空通信と機上射手の教育を目的としていたため、航空戦力がなかった。教官の平原金治曹長が九七式戦闘機で出撃したものの、B-25には追いつけなかった。しかしながら、試作戦闘機「キ61」(のちの三式戦闘機「飛燕」)試作2・3号機に搭載したホ103 一式十二・七粍固定機関砲射撃試験のため、水戸飛校を訪れていた陸軍飛行実験部実験隊の荒蒔義次少佐、梅川亮三郎准尉がキ61で迎撃している。荒蒔機は装備の弾薬筒を代用弾(演習弾)から実弾に変更するため離陸が遅れ、会敵出来なかったものの、梅川機は代用弾のまま先行離陸、B-25の11番機を捕捉し、白煙をふかせた。しかし11番機は撃墜には至らず離脱したため、これによって撃破されたB-25は4番機(ホームストロム少尉)ともされている。なお11番機は日本軍戦闘機2機の撃墜を報告したが、キ61は無事帰還した。また川崎を爆撃した9番機(ハロルド・F・ワトソン中尉)は、機関銃を4丁装備した引き込み脚の戦闘機から攻撃を受けたと報告している。 さらに正午に翌日ラバウル航空隊へ送るために試験飛行をしていた海軍の十三試双発陸上戦闘機が横浜上空に高角砲の弾幕と山肌スレスレを飛行する双尾翼の双発機を目撃し、操縦していた小野飛曹長は九六式陸上攻撃機かと思ったものの、当日早朝に敵空母機動部隊発見の報告から警戒警報が出されていたことから米軍機かもしれないと考え、実弾を積んでいなかったため攻撃は行わず、急いで木更津基地へ滑り込んだ[要出典]。 横須賀航空隊からは、宮崎勇飛行兵曹ら3機の零戦が発進し、哨戒飛行にあたっていた。零戦を順次上空哨戒に発進させていたところ、B-25の空襲がはじまった。零戦隊は『双発機2機が試験飛行で飛ぶので注意せよ』との通達を受けており、対空砲火の中を飛ぶB-25を通達のあった味方機と誤認した。零戦隊が敵機だと知らされたのは着陸してからだった。 東海地区では、B-25到達までに時間があったことから、空襲前に迎撃機が発進した。鈴鹿海軍航空隊から九六式艦上戦闘機9機、九六式艦上攻撃機、九七式艦上攻撃機6機が出撃したが、空振りに終わった。「陸上爆撃機は高高度襲来」の思い込みから高高度で待機し、少数機が低空で飛行するB-25を見落とした結果だった。逆に洋上哨戒に出た九七式艦上攻撃機1機が不時着し、乗員は救助された。陸軍からは明野陸軍飛行学校が臨時防空戦闘機隊を編成し、一式戦闘機「隼」3機、九七式戦闘機15機に教官が搭乗して離陸した。この部隊もB-25と遭遇できずに帰還した。阪神地区では、陸軍の飛行第13戦隊が空襲にまったく対応できず、出撃記録も不明である。ただし、B-25の15番機が神戸上空で九七式戦闘機2機を目撃している。海軍は阪神地区の防空を担当しておらず、動きはなかった。岩国航空隊が所属機を横須賀に派遣したのみである。 洋上では、佐伯海軍航空隊所属の九九式艦上爆撃機2機が15:47に高知県足摺岬沖でB-25を発見した。井上文刀大尉は追跡を命じたが、速度の遅い艦上爆撃機ではいかんともしがたく、振り切られた。
※この「陸海軍航空隊」の解説は、「ドーリットル空襲」の解説の一部です。
「陸海軍航空隊」を含む「ドーリットル空襲」の記事については、「ドーリットル空襲」の概要を参照ください。
- 陸海軍航空隊のページへのリンク