経済政策の転換
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「経済政策の転換」の解説
詳細は「ファシズム経済(英語版)」および「コーポラティズム」を参照 1920年代後半からファシスト政権下での経済成長は貿易赤字と物価上昇から行き詰まりを見せており、独裁体制確立後にそれまでのステファニ財務相による経済的自由主義を切り上げ、経済面でも政府による統制を進め始めた(計画経済)。1925年7月、ステファニの後任として産業界・銀行界出身の実業家ジュゼッペ・ヴォルピ(英語版)が財務相に任命され、自由貿易から一転して保護貿易政策に切り替えて自国産業の温存が図られた。通貨の安定化とデフレ化も推進され、前者については以前から整理統合が進められてイタリア銀行(中央銀行)、ナポリ銀行(英語版)、シチリア銀行(英語版)の三銀行に限定されていた通貨発行権について、制限をさらに進めて中央銀行の専権事項とした。後者については「リラ戦争」と題したリラ高化政策が推進され、1ポンド=92.46リラのレートにまで上昇、さらに金本位制にも復帰した。ヴォルピ財務相の経済政策によって大資本による生産の合理化が進んだ一方、中小企業や輸出企業などは不利な状況に置かれ、賃金低下や失業者の増加なども発生した。 労働組合に対しては旧ナショナリスト協会出身のアルフレッド・ロッコ法相が1926年4月にヴィドーニ協定によってファシスト党系以外の労働組合に企業組合である工業総連盟(コンフィンドゥストリア)との交渉権を認めないことで実質的に形骸化させた。その上でファシスト党系組合に関してもストライキは違法とするロッコ法を制定して弱体化させた。同年11月にはファシスト系労組の中央組織である国民総連盟が6つの産業連盟に分派された。また労使協調の観点から職業別の協調組合組織(コラポラツィオーネ)を設置する動きが進み、1926年にコーポラティズム省が、1930年に産業分野別に労働組合の代表を集めるコーポラティズム評議会が設立された。一方でこうした協調組合組織を社会の意思決定の仕組みに組み込んでいくという試みも行われ、最終的に前述のコーポラティズム議会の設立に繋がった。 農村部では貧農が都市部に職を求めて流れ込み、社会問題となったことから農村部の開拓事業を進めた。ムッソリーニは農業開拓による公共投資で農村の失業率改善や国内における小麦の増産を目的とし、「小麦戦争」と題した大規模な開拓政策を実施した。イタリア中部ラツィオ州のラティーナ市とサバウディア市の間に5000箇所もの小麦農場を整備し、更にその中心地として5つの農業都市を建設する構想が立てられた。また島嶼部のサルデーニャ島でも農業開拓のモデル都市(現サルデーニャ州アルボレーア)が建都され、ヴィラッジオ・ムッソリーニ(Villaggio Mussolini)或いはムッソリーニャ・ディ・サルデーニャ(Mussolinia di Sardegna)と名付けられた。このモデル都市は新たな農村社会の在り方を示すことで、農民に「農村への誇り」を抱かせようという狙いもあった。農業都市の建設は国家ファシスト党の支持団体の一つである全国兵士協会の協力を得て行われ、主にヴェネト州の農民が移住して農地開墾を行った。 小麦戦争は開拓事業で農業従事者を増やすことと穀物の増産には成功したが、小麦増産にこだわったことで開拓地に不向きであっても生産を強制した、ただしこれは最終的に失業対策や農業増産・公衆衛生の改善につなった。国内の合わせて実施された輸入小麦関税引き上げに伴い、穀物価格が上昇して消費量も低下した。ただ、1925年には5000万クインターリ(1クリンターリ=100kg)だった小麦の生産量が1930年代には8000クリンターリとなり、穀物輸入量が75%減少し、1933年までにはほぼ輸入が必要なくなった。しかし開拓と農業政策は政府が農家に支払う助成金の増額に繋がり、失業率改善と農業生産力向上を果たし人口の増加には効果が出たものの経済回復には寄与しなかった。小麦戦争と並行して「土地戦争」と題された農地改革や、マラリアの原因ともなっていたラツィオ州に広がるポンティーノ湿地(英語版)の干拓など農業用地の拡大も実施され、一定の成果を上げた。他にローマの南ポンティエーノ湿地の干拓に成功した。これはローマ帝国やローマ教皇、そしてナポレオンまでもが取り組んだが成功とはいかず、ムッソリーニの干拓成功例として挙げられる。 都市部の改造も精力的に進め、ローマ万国博覧会に向けて首都ローマに新しい都心部としてEUR地区を建設した。設計はムッソリーニがアダルベルト・リベラやジュゼッペ・テラーニらの様式を好んでいた為、モダニズム建築に基いて行われた。同時にローマ時代に凱旋門と並んで勝利を祝って建設する習慣のあった記念柱も設置されており、古典趣味とモダニズムが混交した独自の都市計画となった。同じく新興文化を背景とする映画産業の育成にも取り組み、国立撮影所チネチッタとイタリア国立映画実験センターを設立してイタリア映画界を大きく発展させた。 1929年の世界恐慌による輸出の停滞と外資の撤退によりヨーロッパ経済が後退すると、イタリアでも1930年の夏頃から労働者の失業や賃金の引き下げが相次いだ。禁止されているストライキに踏み切る者も現れ、1931年、二つの国営企業としてイタリア動産機構(IMI)(イタリア語版)と産業復興機構(IRI)(イタリア語版)が設立されたが、それぞれ企業と銀行を公的資金によって救済することを目的としていた。特にIRIは民間銀行に保有する株式と引き換えに税金を投入する事業を行い、銀行を救済しつつ鉄鋼・海運・造船などの分野での大企業を自社の一部として国有化した。第二次世界大戦が開戦する1939年の時点でイタリアはソビエト連邦の次に国有企業の割合が多い国となっていた。一連の政策は経済学者出身のフランチェスコ・サヴェリオ・ニッティ首相時代に育成されたテクノクラートによって主導された。 公共投資の資金を集める一環として「祖国のために金を」(Oro alla Patria、Gold for the Fatherland)という国家主義的なスローガンを掲げた政府への金製品の提供が進められ、ムッソリーニ自身も結婚指輪を政府に提供している。集められた金は溶かされた上で金塊へ精製され、国立銀行の予備金として管理された。
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経済政策の転換
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第二次大戦後の困窮時代に、戦時経済体制化で作られた経営体制がそのまま変わることなく残り続けていた。経済の計画・統制が導入されたのは、景気をまず刺激するための応急措置だったからだ。「1,000キロカロリーの時代」においては、多くの住民に食料を行き届かせるために食料統制は必要不可欠だった。居住インフラは第二次大戦と賠償によって破壊されたが、ドイツの産業自体はそこまで破壊されたわけではなかった。総固定資産は、1948年には1936年の状態にまで落ち込んでいたが、これは比較的新しい、つまり10年以内の資産のことを指していた。それに対して工業生産は1936年時の価値の半分以上少なかった。1947年、アメリカとイギリスの占領地域では、戦争で破壊された交通インフラを再建する措置がとられた。1947年秋から生産自体は高まったが、住民の生活状況は一向に改善されなかった。通貨改革が行われるという期待があり、生産品の多くをストックしてしまったからだ。1948年英米占領地域の経済局長だったエアハルトは、通貨改革(ドイツ語版)との直接的な関係で、段階的に価格を自由化した。オルド自由主義者のレオンハルト・ミクシュ(ドイツ語版)がつくった「通貨改革及び原則法」に踏襲して、まず消費財の価格自由化、次に産業用の資材、暖房・生活用品などを自由化した。通貨統合してショーウィンドウはいっぱいになった。なぜなら、これまで貯めこんできた商品がやっと安定した貨幣と交換できるようになったからである。当時の人たちはこのことに驚き、多くの人はこの通貨統合が奇跡的経済復興(ドイツ語版)の起爆剤になったと見るようになった。事実、通貨改革は必要不可欠であったものの、相対的に見れば、爆発的な経済発展はすでに1947年に始まっていたと見るべきである。(1947年1月から1948年7月までに、工業生産は1936年を基準にすると34%から57%にまで上昇していた。通貨改革から連邦政府樹立までのあいだに、工業生産は86%まで上昇した)。価格自由化は、いわゆるブレークスルー危機(Durchbruchskrise)を引き起こし、生活用品は時給があがるよりも速く高騰し、失業率は3.2%だったのが、1950年初めには12.2%にまで上昇した。社会的市場経済の社会福祉的な要素は、この時代、主にすでに存在していた社会保障のシステムから作られていた。ヘンリー・C・ウォーリッヒ(ドイツ語版)によれば、この社会保障は、この状況を「社会的にまだ耐えられる」ように思わせていた。労働市場での状況は、朝鮮戦争が起こった結果に世界的な経済発展が起こった流れのなかで、しだいに良くなっていった。もちろんドイツは、余分な生産力を優先的に鋼鉄生産に割り当てることで、西側諸国の防衛部隊に貢献するよう連合軍高等委員会(ドイツ語版)から要求を受けた。このことはエアハルトを苦境に陥れた。連邦経済省で計画にあたる幹部たちを削減していたからだ。このような状況のなか経団連と労働組合がイニシアチブを取り、(連邦経済省と連携しながら)原料が消費産業ではなく重厚長大産業に行くように統制する仕入カルテルを作った。彼らは、エアハルトの経済政策を意識的に放置し、自分たちの影響力を高めることで統制によって生じた欠損を埋め合わせた。また、朝鮮危機がコーポラティズム経済の復活を早め、社会的市場経済の前提条件は根本的に変化した。 ドイツ連邦成立後、重要な秩序政策上の方向転換が起こった。例えば、賃金の自律性(ドイツ語版)が、1949年の労働協約法(ドイツ語版)によって定着したし、1952年、(社会福祉・人事の問題についての)労使の共同決定と(経営の問題についての)協力が経営組織法(ドイツ語版)によって制度化された。共同決定を経済の新秩序の中核として位置づけていた労働組合と、社会的市場経済を中核として位置づけていたオルド自由主義、これら双方の考えは、西ドイツの最初の10年間は完全に対立していた。1957年の連邦銀行法(ドイツ語版)は、ドイツ連邦銀行が価格水準安定化を重要課題として取り組むよう定めた。 市場独占勢力(ドイツ語版)と戦い完全競争市場をつくることは、ミクシュや連邦経済省などのオルド自由主義者の中心的な課題であった。しかし競争法の最初の提案に対するドイツ産業界の抵抗は、容赦ないものであり、それはかなり成功した。この抵抗は、コンツェルンの利己心だけから起こったわけではなかった。規模の経済を考慮した厳格な競争政策によって、ドイツの経済的な一極集中化が根本的に阻止されれば、外国の巨大コンツェルンを前にしてドイツ産業の国際競争力が危険にさらされるのではないかという危惧が実際にあったためである。中小企業だけで構成される市場経済というオルド自由主義のユートピアは「ナイーブな」考えであり、ドイツの輸出力と経済成長を全体的に危うくすると考えられた。最終的に1958年、競争制限禁止法(ドイツ語版)が公布され、自由競争の理想に近づけるよう連邦カルテル庁(ドイツ語版)が発足された。カルテルは、原則禁止されたが、条件カルテル、割引カルテル、外国カルテル、危機カルテル、輸出カルテル、合理化カルテルは例外となった。しかしこのことはオルド自由主義の考えからは離れていた。フランツ・ベームは、オルド自由主義にとってドイツ経済秩序の中核となるはずであった領域での敗北を公に認めた。1949年、ミクシュはヴァルター・オイケンに対して次のように説明した。「我々は、今日の政府方針からは離れることを真剣に考えなければなりません。アデナウアー内閣が利権政府であるということがますます暴露されています。農業と重工業の影響は、一致しました。私たちはもうこれ以上傍観することはできません。いつの日か、それが私たちの理念であったという言われるようになるでしょう」。
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