研究史
(学史 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/11 14:23 UTC 版)
研究史(けんきゅうし)または学史(がくし)は、人文科学・自然科学等の学問領域において、これまでどのような研究が行なわれ、どのような分析・評価がなされてきたかを時系列にまとめた、研究そのものの歴史。
注釈
出典
- ^ 村上紀夫 (2019), p. 32.
- ^ 濱田耕作 (1921), pp. 45–48.
- ^ 橋本達也 (2015), pp. 20–24.
- ^ 村上紀夫 (2019), pp. 170–171.
- ^ 石黒圭 (2021), pp. 70–71.
- ^ 村上紀夫 (2019), p. 168.
- ^ 村上紀夫 (2019), pp. 167–182.
- ^ 佐渡島紗織 & 吉野亜矢子 (2021), p. 189.
- ^ 村上紀夫 (2019), pp. 33–34.
- ^ Becker (2012), pp. 200–209.
- ^ 村上紀夫 (2019), p. 34.
- ^ a b 佐渡島紗織 & 吉野亜矢子 (2021), p. 187.
- ^ 堀川貴司 (2010), p. 224.
- ^ 日下九八 (2012), p. 4.
- ^ 日下九八 (2012), p. 6.
- ^ 佐渡島紗織 & 吉野亜矢子 (2021), p. 125.
- ^ 日下九八 (2012), p. 7.
学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/18 16:16 UTC 版)
地生態学のはじまりは、1939年にドイツの学者カール・トロールが、熱帯地域の景観研究をもとに景観生態学として造語したことである。 1960年代になると、景観生態学の研究が地理学分野へと広まり、さらに地理学に隣接する分野へと広まった。これを受けて、トロールは「景観生態学」を国際語とすることを目的に、翻訳しやすい用語として「地生態学」(Geookologie, geoecology)に変更した。 地理学分野では、呼称として地生態学が使われるようになったが、依然として景観生態学が用いられるという混乱もあった。また、生態学・造園学などの分野では、地生態学に呼称が改められることはなかった。
※この「学史」の解説は、「地生態学」の解説の一部です。
「学史」を含む「地生態学」の記事については、「地生態学」の概要を参照ください。
学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/30 15:33 UTC 版)
菊池山哉の旧説であり、いまだ歴史学上の完全な定説となってはいない。本村の新田や枝郷とする解釈もある。しかし近年、柴田弘武によって本格的な再検討がなされつつある。柴田は更に約300ヶ所の別所を析出し、菊池の調査分と合わせて計約500ヶ所の別所を検討した結果、「菊池の説は動かし難いと思う」(『鉄と俘囚の古代史』)と述べている。 菊池山哉は「古く音読の地名は、官符に関係あるものに限るようです」とし、音読の「別所」(ベッショ)を官符関係のものと推定している。『延喜式』には「俘囚料」の「計帳」があり、811年(弘仁2)3月に「始めて諸国をして俘囚計帳を進めしむ」とある。菊池の説はこの「俘囚」の移配地を「別所」と考えるものである。「移配」は菊池の造語。
※この「学史」の解説は、「別所 (地名解釈)」の解説の一部です。
「学史」を含む「別所 (地名解釈)」の記事については、「別所 (地名解釈)」の概要を参照ください。
学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 17:54 UTC 版)
各地域において地誌の記録は古代から行われていたが、科学として地誌学が成立したのは19世紀に入ってからである。 近代地誌学はアレクサンダー・フォン・フンボルトやカール・リッターにより成立し、フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン、フリードリヒ・ラッツェル、ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュにより発展していった。 その後、ヘットナーは、地理学の本質として地域的観点を強調した。このとき、地域の性格の考察、すなわち地域構造の解明が重視された。ヘットナーやリチャード・ハーツホーンは、地理学の本質として地誌学を位置づけていた。一方、オットー・シュリューター(英語版)が景観論を考案した。シュリューターは、景観に大きな影響を与えている地域の構成要素に着目して研究すべきと主張した。 伝統的な地理学においては、地誌学が地理学の中心にあったが、伝統的な地誌学への批判(個性記述的であり非科学的であったという主張)や計量革命の結果、地誌学は弱体化し、存在感は弱くなっていった。 しかし、新しい地理学への批判とともに、1970年代後半から英語圏やフランス語圏において、弱体化した地誌学を再生していく流れがでてきた。英語圏における地誌学の再生の流れは新しい地誌学(new regional geography)といい、社会科学の理論を援用して地域を説明しようとしている。 このほか、地誌学の新たな方法論として、フランスでコレーム地理学が提唱されている。
※この「学史」の解説は、「地誌学」の解説の一部です。
「学史」を含む「地誌学」の記事については、「地誌学」の概要を参照ください。
学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 23:46 UTC 版)
「アルベルトゥス大学ケーニヒスベルク」の記事における「学史」の解説
元ドイツ騎士団総長で、1525年以降、初代プロイセン公のアルブレヒトは、ザームラント司教区参事会よりプレーゲル川のクナイプホーフ島にあるケーニヒスベルク大聖堂の後ろの土地を購入し、そこで1542年にギムナジウムを建設した。1544年7月20日、コレギウム・アルベルティーヌムの設立権利証書を発行し、大学は8月17日に開校式を行った。 新しく建国されたプロテスタントの公国はポーランド王国王冠領の領地であり、大学はカトリック系クラクフアカデミーに対する形でルター派が運営した。最初の学長はフィリップ・メランヒトンの義理息子の詩人ゲオルク・サビヌスである。リトアニアの学者スタニスワフ・ラパリオニスやアブラオマス・クルヴィエティスは初期の大学教授陣の中にいた。すべての教授達はアウクスブルク信仰告白に宣誓をしなければならなかった。プロイセンの領域は神聖ローマ帝国の国境をまたがっていた、皇帝カール5世とパウルス3世の2人は承認を保留したけれども、ケーニヒスベルクアカデミーは1560年3月28日にポーランド国王ジグムント2世から国王特権を受け取った。 1618年からプロイセン公国はブランデンブルク辺境伯による同君連合に統治され、そしてまた1657年に「大選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルムは、最終的にヴェーラウ条約によってポーランドからプロイセンの主権を完全に獲得した。アルベルトゥスは、ブランデンブルク=プロイセン、プロテスタントの知的中心地であった。当初は神学、医学、哲学、法学の4つのコレージュで構成され、のちに、自然科学系も創設した。それ以後の学長には、数多くのホーエンツォレルン家のプロイセン王族が務めていたが(最後は皇太子ヴィルヘルム・フォン・プロイセン、1908–1918)、しかし大学に出向くことはなく、通常は学術団体事務担当の副学長が代表した。 プロイセン領域は悲惨な三十年戦争においてほぼ無傷で残ったため学生の間でケーニヒスベルク大学は人気を博した。17世紀、1656年/57年に学長を務めた、詩人ジーモン・ダッハの拠点としても知られている。ロシア皇帝ピョートル1世は1697年にアルベルトゥスを訪問したため、プロイセンとロシア帝国間の接触を増やすことにつながった。ケーニヒスベルクで注目すべきロシアの学生には、のちにロシア科学アカデミーの総裁になったキリル・ラズモフスキー、そして将軍ミハイル・アンドレーエヴィチ・ミロラドヴィチである。大学と市はリトアニアの文化発展に多大な影響を与えた。リトアニア語の最初の図書は1547年にここで印刷され、複数の重要なリトアニアの作家がアルベルトゥスに通った。また、大学はバルト・ドイツ貴族のお気に入りの教育機関でもあった。 18世紀は啓蒙思想における「ケーニヒスベルクの世紀」として文化史に名をとどめている、アルベルトゥスの学生だったヨハン・クリストフ・ゴットシェートのころに全盛期が始まり、哲学者ヨハン・ゲオルク・ハーマンや作家テオドール・ゴットリーブ・フォン・ヒッペル・エルダーらがそれに続いた。著名な卒業生にはヨハン・ゴットフリート・ヘルダー、ツァハリアス・ヴェルナー、ヨハン・フリードリヒ・ライヒャルト、E.T.A.ホフマン、そして何よりも哲学者イマヌエル・カントは1786年と1788年に学長も務めた。これら学徒らが、のちのヴァイマル古典主義やドイツ・ロマン主義運動の基礎を築いた。 アルベルトゥスの壮大な植物園はナポレオン戦争中の1811年に開園した。2年後、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルは園の隣に優れた天文台を設置した。大学教授陣には哲学者ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ(1806–07)、生物学者カール・エルンスト・フォン・ベーア(1817–34)、数学者カール・グスタフ・ヤコビ(1829–42)、鉱物学者フランツ・エルンスト・ノイマン(1828–76)、物理学者ヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1849–55)などのような科学世界の巨人達が含まれている。 19世紀および20世紀、大学は数学の学び舎として最も有名であり、カール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビを創始として、彼の教え子ルートヴィヒ・オットー・ヘッセ、フリードリヒ・リシェロー、ヨハン・ゲオルク・ローゼンハイン、ルートヴィヒ・ザイデルらによってそれは受け継がれていった。これはのちにヘルマン・ミンコフスキー(アルベルト・アインシュタインの先生)、アドルフ・フルヴィッツ、フェルディナント・フォン・リンデマン、そして近代随一の数学者の1人ダフィット・ヒルベルトらの名が加わった。数学者アルフレッド・クレープシュおよびカール・ゴットフリート・ノイマン(ともにケーニヒスベルク生まれにして、ルートヴィヒ・オットー・ヘッセの下で教育を受けた)は、1868年に『Mathematische Annalen』を創刊、これはやがて当時で最も影響力をもった数学学術雑誌になっていった。 1844年8月31日に大学開校300年記念祭を祝う、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はアルベルトゥスの新本館の土台を築きあげ、それは皇太子フリードリヒ3世や副学長ヨハン・カール・ローゼンクランツによって1862年に開館式が執り行われ使用開始した。閲兵広場中央の建物はフリードリヒ・アウグスト・シュテューラーの設計、計画によってネオルネッサンス建築様式に建てられた。建物正面にはプロイセン公アルブレヒトの浮き彫り細工の騎馬図が飾られている。その下の方にプロテスタントの改革者マルティン・ルターやフィリップ・メランヒトンの彫像が壁龕にある。内部には大理石の円柱を支えている堂々たる階段がある。評議員会講堂にはリヒャルト・ラウヘルトによって描かれた皇帝フリードリヒ3世の肖像画や彫刻家ヨハン・ゴットフリート・シャドウの教え子フリードリヒ・ハーゲマンによって制作されたイマヌエル・カントの胸像が飾られている。隣接している講堂("Aula") には1870年に描かれたフレスコ画が飾られていた。 大学図書館は、1901年にミッテルベルカイムに所在し、約23万冊以上が所蔵されていた。ドリット・フリース・シュトラーセの近くに多機能施設パレストラ・アルベルトゥスが有り、市民や学生の間でスポーツ競技を高い形で奨励するため1898年に設立した。すぐ近くには官公庁があり、画家フーゴー・クノールや風景画家マックス・シュミットらによって描かれた壁画が飾られている。 大学末期間、ヴェルサイユ条約によって東プロイセン州の領域分離後、アルベルトゥスの教員やドイツ学生連合は知的生活をドイツナショナリズムの方向へと押しあげ、帝国との連携を強調した。 1944年7月10日、大学は帝国大臣ヴァルター・フンク参列下でその400周年を迎えた。数週間後、8月26日/27日および29日/30日の夜の間に、ケーニヒスベルクは、広範囲に英国空軍によって爆撃された。さらに1945年1月から4月にかけて市は赤軍の東プロイセン攻勢、そして最後にケーニヒスベルクの戦いによって荒廃した。大将オットー・ラッシュ(ドイツ語版、英語版)は4月9日に降伏文書へ調印、歴史的中心街は攻撃によって破壊され、大学キャンパスの約80%は廃墟と化した。教授陣は避難し、その多くはゲッティンゲン大学に受け入れられた。 アルベルトゥス本館を含む残った学内施設は1948年からカリーニングラード国立教育大学(ロシア語: Калининградский государственный педагогический институт (КГПИ))によって利用された。同大学は1967年にカリーニングラード国立大学(ロシア語: Калининградский государственный университет (КГУ))となり、2005年にイマヌエル・カント記念バルト連邦大学(ロシア語: Балтийский федеральный университет имени Иммануила Канта)に改称した。
※この「学史」の解説は、「アルベルトゥス大学ケーニヒスベルク」の解説の一部です。
「学史」を含む「アルベルトゥス大学ケーニヒスベルク」の記事については、「アルベルトゥス大学ケーニヒスベルク」の概要を参照ください。
学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 06:33 UTC 版)
地形と地形変化については古代から記録されていたが、近代科学として地形学が成立したのは18世紀末である。近代地形学において当初は地質学との関係性が強かった。約100年前にウィリアム・モーリス・ディヴィスにより地形学は発展し、ディヴィスは地形輪廻を提唱している。一方グローブ・カール・ギルバートや谷津栄寿のように、定性的な説明にとどまらずに地形を力学的な説明から定量的に理解しようとする地形学者が近年は増えている。
※この「学史」の解説は、「地形学」の解説の一部です。
「学史」を含む「地形学」の記事については、「地形学」の概要を参照ください。
学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 04:20 UTC 版)
気候に関する概念自体は古来からあったとされるが、古代のヨーロッパでは、ヘロドトスがギリシャの気候についての記述などを行っていて、吉野正敏はヘロドトスを古代の気候学の第一人者と評している。中世では気候学の発展はあまり見られなかったが、17世紀になってから同種の温度計や気圧計を用いた多数の地点での観測が始まった。18世紀では蓄積された観測データの刊行が始まり、後に観測地の平均値などの分析を通して、気候についての記述がなされるようになった。なお、18 - 19世紀では、「気候」とは特定地点(地域)の大気の平均状態のことを指していた。19世紀から20世紀にかけて、気候学は科学としての発展を遂げた。福井英一郎はユリウス・フォン・ハン(英語版)を「気候学の創始者」とみなしている。 ハンは著書「Handbook of Climatology」で、気温などの要素の地球規模での理論的な特徴に重点を置いた。これは気候学を地理学の補助的に位置づけるとともに、気候を統計的な分析対象ともみなした。気候学はそれから少なくとも50年間はほとんどこの伝統のままで、物理理論をほとんど利用せず、統計数学の広範囲な利用を増加させることになった。その結果、ほとんどの気候学者の専門は、物理学よりもむしろ地理学だった。イギリスの気象学者C. S.ダーストは1951年に次のように述べている。「現在行われているように、気候学は主に進展に重要である物理学的な理解の基礎を持たない統計研究である。」 しかし、近代以降、気候システムや気候変動についての考察が行われ、航空技術の発達などにより気象現象を捉える技術が向上した事により、気象現象の過程やメカニズムを捉えることに重点を置く学問へと移行していった。現在では気候学は地球物理学と自然地理学の双方の影響下にある。 現在は、気候モデルや地球システムモデルの出現によって気候学は大きく変わりつつある。これらのモデルを用いて、将来の地球温暖化の研究や気象再解析を用いた近い過去の気候を含めたイベントアトリビューション(生起した異常気象が過去の気象と比べてどの程度の再現度を持つかの研究)などの研究が行われている。これらの研究はそれまでの伝統的な気候学とは違い、全球規模を対象にした熱力学を含む物理学や場合によっては生物・化学過程を含むものである。これらの研究は数値予報技術、理論気象力学、経験的な統計気候学を統合し、部分的には実証学的なアプローチを試みるものである。そのため、このような研究は気候科学と呼ばれる場合もある。
※この「学史」の解説は、「気候学」の解説の一部です。
「学史」を含む「気候学」の記事については、「気候学」の概要を参照ください。
学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 00:21 UTC 版)
地理学者の吉川虎雄は、震災予防調査曾からの委託で山崎直方が行った1923年の関東地震に関する調査が基礎的研究のきっかけとなったとしている。
※この「学史」の解説は、「変動地形学」の解説の一部です。
「学史」を含む「変動地形学」の記事については、「変動地形学」の概要を参照ください。
学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 03:40 UTC 版)
1841年にドイツの地理学者・ヨハン・ゲオルグ・コール(Johann Georg Kohl)が『地表の形態に依従するものとしての人間の交通および聚落』(Der Verkehr und die Ansiedelungen der Menschen in ihrer Abhängigkeit von der Gestaltung der Erdoberfläche)を発表したことが交通地理学の始まりとなった。コールは交通地理学の研究において自然環境と人間活動の相互関係に着目し、交通路の形態と地形との関係性について研究した。この方法はアンドレーやヘットナーなど、コールにつづく地理学者にも引き継がれた。しかしエーリヒ・オトレンバ(ドイツ語版)などは、より複雑な分析が求められる社会環境を考慮できていないことを批判し、環境決定論にとらわれない分析を行おうとしたものの、その間に都市地理学など地理学の他分野における交通の研究が大きく進行し、それらも交通地理学とよばれるようになった。このため、交通地理学には、環境と交通路・交通様式との関係性を研究する場合と、地理学の他分野の研究のために交通を考える場合の2つが考えられ、さらに両者の統合も困難となり方法論の確立が難しくなった。青木栄一は、前者の研究例として交通機関・交通路の開通の要因と過程の研究を、後者の研究例として交通機関・交通路の開通に伴う地域への影響を挙げ、後者は都市地理学や商業地理学との類似性を指摘している。 1920年代から1930年代前半に、ドイツ学派の交通地理学は日本にも伝播し、日本における最古の交通地理学の教科書『世界交通地理概説』は、1923年に富士徳治郎によって書かれた。ここではヘットナーの考えが解説され、自然環境と距離条件をもとに交通路の分布や機能の説明が行われた。第2次世界大戦前の日本では交通地理学の流派が3つあった。まず、ドイツ学派に基づくグループは自然環境と交通現象の分布に着目しようとする地理学独自の見方から研究を行い、それらの研究対象は地図で表示可能な交通現象である。代表的な研究者として淡川康一が挙げられる。次に、歴史地理学や集落地理学の研究の中で交通史の研究が行うグループがあった。ここでは過去の交通路の分析のほか、集落の分析から交通を説明したり、過去の戦争と交通路の関係性の研究が行われたりした。代表的な研究者として田中啓爾と小川琢治が挙げられる。この他、井上長太郎や堀江賢二など既存の地理学の領域に縛られず自由な視点で研究を行った研究者もいたが、当時の日本の交通地理学界からは評価されていなかった。 1950年代以降、山口平四郎・清水馨八郎・有末武夫・柾幸雄により日本における交通地理学の体系化が進行した。山口平四郎は、当該地域の自然環境や経済状態をもとに、土木や交通の技術革新を踏まえて交通施設の立地を説明する形で、歴史地理学的に地域を総合的に理解しようとした。清水馨八郎は交通現象をもとに大都市の都市構造(英語版)の分析を行い、都市問題や交通問題の研究や対処方法の提言などを行った。有末武夫は交通流をもとに交通圏を考案したほか、交通の発達を人口、産業、土地利用で説明しようとし、地域社会と交通の関わりを交通流や交通路をもとに明らかにしようとしていた。柾幸雄は港湾について経済史、交通政策史を踏まえたうえで発展プロセスを把握しようとしていた。 1960年代になると、エドワード・アルマンが計量地理学の方法を交通地理学に応用するようになり、日本でもアメリカでの計量革命の影響を受け、計量的な交通地理学研究が行われるようになった。奥野隆史はOD調査により地域間結合を明らかにしたほか、交通地理学において計量的な研究を行った。1970年代になると計量的な交通地理学研究はさらに増加し、交通ネットワークや地域間結合の計量的な分析が盛んに行われた。この背景として、書籍『地域交通論―その空間モデル』の刊行が挙げられる。 1990年代以降は、計量的な交通地理学研究は以前ほど活発ではなくなるが、村山祐司、藤目節夫などにより研究が行われていた。21世紀に入ると地理情報システムを利用した定量的な交通地理学研究が行われるようになった。一方、数理モデルを援用した計量的交通地理学研究の数は減少している。
※この「学史」の解説は、「交通地理学」の解説の一部です。
「学史」を含む「交通地理学」の記事については、「交通地理学」の概要を参照ください。
学史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 05:14 UTC 版)
ギリシャ時代では、地球に関する研究は石炭の発掘と密接に関係していた。18世紀では地質学が発達・確立した。しかし比較的進歩は遅く、19世紀の終わり頃から地球物理学や地球化学が発展した。1960年代にプレートテクトニクスが発達した。しかしながら地球に関してはまだ解明されていないことが多い。また、近年、関心が高まった環境問題、地震予知、火星探査などに直接関わる分野として注目され始めている学問である。 地球科学あるいは地球惑星科学は、ひとつの学問体系というよりは地球に関する様々な学問分野の総称であり、地質学・鉱物学・地球物理学・地球化学などに細分化されている。またその研究対象も、分野によって大気圏・表層環境・生命圏・地球内部・太陽系など多様である。
※この「学史」の解説は、「地球科学」の解説の一部です。
「学史」を含む「地球科学」の記事については、「地球科学」の概要を参照ください。
「学史」の例文・使い方・用例・文例
- >> 「学史」を含む用語の索引
- 学史のページへのリンク