ハンセン病患者救済に尽力した人物とは? わかりやすく解説

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ハンセン病患者救済に尽力した人物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 17:12 UTC 版)

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後藤昌文・後藤昌直父子 後藤昌文明治時代ハンセン病治療医。文政8,9年出生大風子油主成分とする清血煉を開発温熱療法使った1871年11月新宿私立療養所起廃院を開院1871年東京府知事から治療研究依頼され一時公費治療した1881年ハワイ国王父子謁見した。 後藤昌直明治時代ハンセン病治療医。初代後藤昌文長男であり、二代目後藤昌文とも称される。父に師事しハンセン病患者治療一生尽くした隔離政策が主であったハンセン病を、外来通院治療治癒導いたこと、難病自療などの著作講演わかりやすく患者向けに啓発活動行い治癒する病気であることを説いたこと、また明治時代ハワイ政府招聘されダミアン神父初めとする海外患者の治療行い高い評価得ていたこと、全国門下生指導行い全国各地治療院開設したこと、貧し患者無料治療行っていたことなど、日本ハンセン病歴史上特筆すべき存在であった詳細は「後藤昌文」および「後藤昌直」を参照 テストウイード テストウイード(1849-1891) Germain Leger Testvuideフランス神学校終えパリ外国宣教神学校学んで明治6年来日明治20年静岡県御殿場地方伝道中、ある水車小屋30歳くらいの女性のらい患者発見同地方に一軒の家を買い最初は6名を収容明治22年現在の神山に復生病院創立、のち病をえて明治24年死去3代目院長ベルトランは復生病院基礎築いたハンナ・リデル ハンナ・リデル(1855-1932) Hannah Riddellは、1855年ロンドン郊外バーネット生まれた両親に連れ子がある複雑な家庭で、父親以前外国にも出かけていた兵士である。経済的に苦労し母親とともに一般教養や色々の資格与え各種学校を南ウエールズ経営したが、行き詰まり破産した。生活を立て直そう教会(CMS)に入り両親の死後、35歳伝道のために日本訪れる。1891年本妙寺ハンセン病患者をみてショックを受ける。その年の12月教会本部手紙書いた。彼女は新しい組織をつくることに興味があり、権力のある人に接近することに努めた教会によりハンセン病病院作る目的力量発揮した。当然組織トップ交渉するので、中間管理職のブランドラム師は、板ばさみとなり、精神異常起こして死亡至ったリデル教会組織にたくさん敵を作ったので、教会から離れて回春病院経営せざるを得なかった。衣装着飾り上京すれば帝国ホテル宿泊し、夏は軽井沢避暑をする。いろいろ贅沢をするが、寄付を受ける作戦主張し意見変えない結果的には驚くべく多数全世界金持ちから寄付受けている。日本においては実業家政治家、はては皇族会えるようになるリデル性的なことには潔癖で、回春病院内では療養に対して徹底した禁欲強制し男女言葉を交わすのも禁じ挙句の果て療養者が雌雄カナリアを同じ籠で飼うことさえ禁止したとされる沖縄患者への助力考え青木恵哉派遣した。またらい研究所作ったが、これは日本初である。 エダ・ハンナ・ライト エダ・ハンナ・ライト( Ada Hannah Wright, 1870 - 1950) - ハンナ・リデルの姪で、彼女が創設したハンセン病療養所再春病院後継院長勤めた再春病院1941年解散させられ、彼女はオーストラリア亡命した1948年來日して熊本晩年過ごしたケート・ヤングマン ケート・ヤングマンKate M. Youngman, 1841年12月17日 - 1910年9月29日)は、アメリカ合衆国宣教師来日して1894年ハンセン病施設目黒慰廃園」を設立したコンウォール・リー コンウォール・リー(1857-1941) Mary Helena Cornwall Legh(以前 Mary Helena Cornwall-Leihとあったが本家HPなどにより訂正イギリスカンタベリー市で、インド駐屯軍陸軍大佐長女として生まれた本家男爵である名門である。聖アンドリウス大学教育学経済学言語学英文学専攻した母の死後、相続した莫大な財産自己の余生人類奉仕役立てようと、日本選び明治41年51歳で日本聖公会宣教師として来日リデル慰廃園ハンセン病救済活動見学草津に赴き湯の沢で聖バルナバ(St.Barnaba)医院をはじめ、18ホーム、1教会、1小学校、1保育園開設し患者その子弟の救済、とくに養育尽くした昭和16年84歳永眠ゴードン・アレキサンダー・ライリー ゴードン・アレキサンダー・ライリー (Gordon Alexander Ryrie) イギリス出身医師1928年よりマレーシア連邦最大のスンゲイブロー療養所院長務める。日本軍捕虜になりシンガポールチャンギ収容所入所して健康を害し、後イギリスに帰国美しいらい療養所紙幣作ったが、検査してがないことを確認後、1938年燃やしてしまった。現在療養所銅像がある。 綱脇龍妙 綱脇龍妙(1876-1970) 明治39年日蓮宗僧侶綱脇龍妙身延山参拝したおり、らい患者悲惨なる生活をしているのを目撃時の身延山法主許可得て河原より13名を収容身延深敬(じんきょう病院作った。彼は全国勧進し費用獲得し十万一厘講を組織した大正9年財団法人となる。昭和9年から17年福岡県分院をつくるも、軍の結核施設として譲った昭和45年95歳でなくなる。深敬園平成4年廃止石館守三 石館守三(1901-1996)(いしだて もりぞう、1901年1月24日 - 1996年7月18日)は日本の薬学者、薬理学者日本の薬学界のパイオニアハンセン病治療薬プロミン」を合成し多くハンセン病患者救った東京大学薬学部初代学部長名誉教授薬学博士岡村平兵衛 岡村平兵衛(1852-1934) プロミン以前の治癩大風子油泉州堺の岡村製薬所のものが品質優れ広く用いられた。1852年生まれ明治21年行き倒れ患者救い自宅救済した人は千数百人に達した明治34年自宅での救済中止した昭和19年原料の輸入がとまり、プロミン使われるようになって大風子時代終了した身長188センチ素人相撲大関張り、剣は免許皆伝で、堺では有名人であった1934年没。享年82村田正太 村田正太(むらたまさたか、1884-1974)。日本医師医学研究者。梅毒血清反応村田法」の創始者ハンセン病研究者エスペランティスト1926年から1933年大阪府外島保養院院長。外島事件で、辞任患者一人人間として対等にキミ」と呼び遇したのは当時としてはたいへん珍しい。その後職に就かず神奈川県二宮町個人的研究生活に入る。 小川正子 小川正子(1902-1943): 協議離婚後(相手は後に衆議院議長大臣になる)、東京女子医学専門学校入学卒業間際光田健輔全生病院就職希望定員がなく断られた。1932年長島愛生園医務嘱託33年医官発令在宅患者収容にいく。1937年結核発病38年小島の春、ある女医の手記」を出版41年退職43年永眠1991年小川正子記念開館当時在宅患者悲惨な状況周辺の人々収容状況記述され記録文学である。映画化で、多くの人の感動呼んだが、それは彼女が嫌うところであったまた、太田正雄木下杢太郎)は「小島の春」の文学的価値限って高く評価し、「あれだけ感動させる力のあるのは事実描写というものの他に作者シンセリティ誠実さ)と文学的素養があるからで、特殊性という付加物なしも本当の文学だと思う。もうひとつ叙景すばらしい。」と言っている。しかし映画見てからライ根絶最良策はその化学療法にあると批判した松田ナミ 松田ナミ1904年 - 1995年11月14日)ら、戦前戦中にかけ、女医がらい医療たずさわった記録がある。古く服部ケサ田中逸野、西原ツボミ松田ナミ小川正子神谷美恵子小原安喜子を含め33名の記録である。多く東京女子医大かその前身卒業生である。松田ナミは、郷里八代に近い九州療養所勤務したが、誘われるまま、辞表出して沖縄愛楽園転勤した。その療養所では男性は殆ど応召ししまっていた。三上婦長(三上千代)を中心に7名の白衣の天使群はまるで戦場における7名の武士のように勇敢に最後まで踏み止まって職務遂行した白兵戦もあった戦い戦後のことも記載がある。現在でも女医重要な任務ついているが、戦争時男性がいなかったため貴重であった松田ナミ当時医局長ゼローム・ルカゼウスキー ゼローム・ルカゼウスキー(JeromeLukaszewski)(1922-2003):カトリック宣教師 。アメリカコネチカット州ニューヘヴン生まれる。ポーランド系アメリカ人和光松原若安(じょあん事務長先任パトリック神父努力で、和光園で生まれた子供たち養育努力。「子供の家」、引き続き、「名瀬天使園」を創設した。「南日本文化賞」を受賞らい予防法廃止時、感謝集い世話受けたともども開かれた 青木恵哉 青木恵哉(1893-1969) 1893年徳島県生まれた16歳ハンセン病発病23歳大島療養所入所2年後洗礼受けた。のち回春病院転院1927年回春病院ハンナ・リデルから、らい者への伝道のために沖縄派遣された。昭和5年伝道中心屋部うつった昭和10年焼討事件にあい、無人島移った洞窟テントにより40人が生活したその後屋我地島済井出移り昭和12年MTL相談所が出来翌年国頭愛楽園ができた。青木戦後伝道行い昭和44年老衰のため地上の生を終えた井深八重 井深八重(いぶかやえ1897年10月23日-1989年5月15日)日本看護婦台北市出生同志社女学校専門部英文科卒業長崎英語教師大正8年ハンセン病診断され神山復生病院入院誤診わかったが、当時のレゼー院長献身ぶりに接し神父助けることを決心速成科の看護婦になり同病院に就職戦後の困難時期乗り切り戦後日本カトリック看護協会設立初代会長として貢献神山復生病院創立100周年前日亡くなり協会総裁表彰を受ける。父は国会議員井深彦三郎叔父明治学院学院長だった井深梶之助ソニー創始者井深大とは遠縁にあたる。遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』のヒロインモデルでもある。 石渡こと 石渡こと(1874-1947)東京市出生1902年より光田健輔の「回春病室」の看護婦光田をよく補助した1909年全生病院首席看護婦1924年初代看護婦長。全生病院では、 風呂場外科、という言葉もある。石渡婦長は、光田健輔相談して、船のようなものに下に車がついていて、寝ながら入浴できるものを風呂場持ち込んできてそれに患者入れて体を洗ったという。 1936年退職1947年没。男勝り頑固な面もあったが、愛情深く侠気なところもあり、また治療光田直伝評判よかった看護婦全体および、若い医師の面倒もみた。「神山復生病院120年歩み」に2枚写真署名がでている。署名によると石渡こと(こは「古」をくずした字)と書いていた。また、林文雄著書天の墓標のなかで、特に1章設け、「石渡婦長さんに感謝す」を設け人となり褒めている。彼女は自腹を切って人の食事の面倒をみられたという。 三上千代 三上千代(1891-1978) 山形市出生1916年全生病院看護婦17年草津行きコンウオール・リーの救らい事業参加1924年女医服部ケサと共に鈴蘭病院開設服部死亡により、全生に帰る1925年再び草津へ。1933年生へ1939年国頭愛楽婦長戦争苦労する1946年生へ1953年退職日本MTL理事1957年ナイチンゲール賞を授与される同年黄綬褒章。勲4等瑞宝章1978年永眠河村正之 河村正之(1878-1933) 九州療養所初代所長医師としては日本最初公立ハンセン病療養所長。温厚篤実文筆親しむ。患者にも慕われたが熊本県杖立温泉にて急逝在職1909年4月-1933年7月中條資俊 中條資俊:ちゅうじょう すけとし、明治5年11月7日1872年12月7日) - 昭和22年1947年3月1日日本医師ハンセン病研究者北部保養院(国立療養所松丘保養園院長園長1909年から1947勤める。治療法開発に熱心でテレピン油製剤熱心に研究した林文雄 林文雄(はやしふみお 1900-1947)日本医師全生病院、(国立療養所多磨全生園),国立療養所長島愛生園,国立療養所星塚敬愛園(園長),国立療養所大島青松園(園長)を勤めた。特に光田健輔助け光田反応完成させた。 高島重孝 高島重孝たかしましげたか(1907-1985)は日本医師ハンセン病治療貢献した国立療養所栗生楽泉園東北新生園国立駿河療養所(所長)、長島愛生園園長)に勤務した長島愛生園本土を結ぶ、長島架橋努力した家坂幸三郎 家坂幸三郎家坂幸三郎(いえさかこうさぶろう1878-1952)は日本医師ハンセン病療養所国立療養所宮古南静園国立療養所沖縄愛楽園所長勤めたクリスチャンで、現在でも宮古南静園教会がある甦生会(よみがえりのかい)を結成した三宅俊輔 三宅俊輔1854年島根県の生。1874年上京桑田衡平家塾ベルツ指導をえて、1878年内務省医師開業免状をえる。故郷に近い津和野開業1890年山口移動1893年長崎へ、翌年谷山鹿児島県)や指宿へ。伝道師として活躍1897年リデル招かれ回春病院医師として赴任30年その職にあったリデル病院に週2回しかこなかったが、彼が病院まかせられていた。たいへん真面目な性格で、時にはリデル患者の間に入って患者守り、皆から信頼されていた。1926年没。 上川豊 上川豊かみかわ ゆたか、1892年 - 没年不詳上川豊日本医師ハンセン病治療研究従事し国立療養所菊池恵楓園台湾総督府楽生院初代院長)、国立療養所東北新生園2代目園長)で勤務した大風子油研究し東北新生園時代社会復帰農園作った岩下壮一 岩下壮一 (いわしたそういち1889年 - 1940年) カトリック司祭哲学者東京帝国大学(現・東京大学哲学科卒業後、欧米留学をしており、教授嘱望されたが、生涯カトリックの一司祭として司牧宣教学究ハンセン病患者福祉などに尽力した1930年 ハンセン病療養所神山復生病院6代目院長)。 中村哲 中村哲 (医師)なかむら てつ、1946年9月15日 - )は、福岡県福岡市出身日本医師ペシャワール会医療サービスPMS)総院長西南学院中学校福岡県立福岡高等学校九州大学医学部卒業国内病院勤務ののち、1984年パキスタン北西辺境州州都ペシャーワル赴任以来20年以上にわたってハンセン病中心とする医療活動従事早田晧 早田晧 (はやた ひろし、1903年12月 - 1985年8月19日没) ハンセン病患者治療した医師縁戚にあたる綱脇龍妙説得され金沢医大卒業ハンセン病施設である福岡身延深敬病院分院勤務九州大学研究長島愛生園光田健輔弟子となる。昭和19年すでに戦場なりそうな、沖縄愛楽園園長になり、患者戦災から守るのに苦労をする。戦争直後であるが、爆撃受けた跡地病理解剖をしていた写真米軍撮影した1946年 多磨全生園転任1948年三島保健所にうつる。1950年 三島市開業、時々身延深敬病院患者診察をした。 屋我地島ドン・キホーテ上巻 屋我地島ドン・キホーテ下巻 野島 泰治 野島泰治(のじま たいじ、1896年11月10日 - 1970年3月3日)は日本医師ハンセン病治療に当たり、大島青松園勤務41年(うち園長36年勤める。『祈る らい医師海外紀行』と 随筆集 『らいと梅干憲兵』(1971年野島泰治先生記念会) 終戦直後海軍より車の提供を受けた野島使用していたところ、陸軍憲兵から理不尽に監禁され体罰をうけたが、それでも死なないよかった述べている。

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