小川正子
小川正子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/03 17:12 UTC 版)
「ハンセン病に関連した人物」の記事における「小川正子」の解説
小川正子(1902-1943): 協議離婚後(相手は後に衆議院議長、大臣になる)、東京女子医学専門学校入学。卒業間際に光田健輔の全生病院に就職を希望、定員がなく断られた。1932年、長島愛生園医務嘱託、33年医官発令。在宅患者の収容にいく。1937年結核発病。38年「小島の春、ある女医の手記」を出版。41年退職。43年永眠。1991年、小川正子記念館開館。当時の在宅患者の悲惨な状況、周辺の人々や収容の状況が記述された記録文学である。映画化で、多くの人の感動を呼んだが、それは彼女が嫌うところであった。また、太田正雄(木下杢太郎)は「小島の春」の文学的価値に限って高く評価し、「あれだけ感動させる力のあるのは事実の描写というものの他に作者のシンセリティ(誠実さ)と文学的素養があるからで、特殊性という付加物なしにも本当の文学だと思う。もうひとつは叙景がすばらしい。」と言っている。しかし映画を見てからライ根絶の最良策はその化学療法にあると批判した。
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