えんどう‐しゅうさく〔ヱンドウシウサク〕【遠藤周作】
遠藤周作
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遠藤 周作(えんどう しゅうさく、1923年〈大正12年〉3月27日 - 1996年〈平成8年〉9月29日)は、日本の小説家。日本ペンクラブ会長。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
注釈
- ^ 遠藤周作は上智大学時代のことに触れられることを極度に嫌がった。浪人時代の回想エッセイなどを数多く発表しているが、上智時代の事には全く触れていない。自作年譜にも載せていない徹底ぶりである。この時期の評論は加藤宗哉が詳しい。
- ^ この試験の際に採用されたのが鈴木清順である。
- ^ 「海と毒薬」に対する一部からの反発は強く、発表後、遠藤家に「死ね」と書かれた血書や、「日本の恥部を抉ってどうするつもりだ」という脅迫状、果てには日本刀が送り付けられた。
- ^ 1953年死去、当時はまだ土葬だった。
- ^ 医師森納によれば「医師の諸身分について、江戸時代には封建制上の身分によって大別すれば、藩医・町医師・在医師の区別があった。藩医は、藩によって召し抱えられた医師である。それに準ずる身分として鳥取藩の場合、東西両分知家と着座家に召し抱えられた医師、即ち陪臣医があった。藩医・陪臣医は俗に“御典医”と呼ばれ、武士身分の処遇をうけた。町医師は、鳥取城下・米子・倉吉等の町で町奉行支配を受けた町民医師である。藩医には御医師、無足医師の区別があった。御医師は城詰を命ぜられた医師である。藩臣の礼席上の地位では、御近習の次席に置かれたので、御近習医師とも呼ばれた。次に、士分格医師の初級の者が無足医師である。町医師から抜擢されて藩に召し抱えられ士分取り立てとなった際、まず無足医師とされ、五人扶持を与えられるのが普通であった[19]。
- ^ 医師森納によれば「御近習医師の筆頭が御匕役で、内科の医師のうち特に業務の勝れた者が選ばれた。御匕役は大体2人か3人で、藩主の日常の健康管理、投薬、膳部の毒味などに当たった[21]。
出典
- ^ a b c “史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月22日閲覧。
- ^ 湯梨浜町企画情報課(編)「遠藤周作氏のルーツ」『広報ゆりはま』2007年1月号、鳥取県東伯郡湯梨浜町、2007年、2019年3月15日閲覧。
- ^ 加藤 2006, p. 不明.
- ^ 桑原真夫『フランソワーズ・パストル』論創社 2022年
- ^ a b 戸板康二『思い出す顔』(講談社)P.54[要文献特定詳細情報]
- ^ a b “第28回文学講座(H27.2.2)”遠藤周作文学館(長崎市)
- ^ 大塚英良『文学者掃苔録図書館』(原書房、2015年)50頁
- ^ a b c d e 遠藤 2000, p. 不明.
- ^ さくらももこ『さるのこしかけ』(集英社、1992年)25-30頁。
- ^ 兼子 1995, pp. 27–28.
- ^ 遠藤周作文学全集 vol. 12所収,「合わない洋服」(1967)
- ^ a b 長谷川(間瀬) 2008, p. 79-100.
- ^ 兼子 1995, p. 28.
- ^ カトリック新聞 1979年4月8日付
- ^ ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 4-6頁[要文献特定詳細情報]
- ^ ご存じですか 41 キリスト者の信条 踏絵について デルコル神父・フェデリコバルバロ神父著 世のひかり社, 25-26頁
- ^ 「有吉氏らが委員に 新中教審の18氏決る」『朝日新聞』昭和47年(1972年)5月30日夕刊、3版、3面
- ^ 『朝日新聞』1979年3月6日(東京本社発行)朝刊、22頁。
- ^ 森 1993, pp. 15–16.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 森 1985, p. 98.
- ^ 森 1993, p. 17.
- ^ a b c d e f g h i j 森 1985, p. 99.
- ^ 『遠藤周作のすべて』朝文社、1991年4月20日 1991、328頁。
- ^ "故遠藤周作氏の妻、遠藤順子さん死去 文学館建設に尽力". 長崎新聞. 2021年3月12日. 2023年1月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年1月30日閲覧。
- ^ 「高卒社長が誕生の可能性も!?」フジテレビ“次期社長レース”の行方、日刊サイゾー、2012年6月11日
- ^ フジテレビ社長に遠藤周作氏長男 「騒動」時に広報部長 2019年5月13日20時17分 - 『朝日新聞』
- ^ フジ新社長の遠藤龍之介氏「高卒社長誕生」デマ語る [2019年5月14日5時1分] - 『日刊スポーツ』
- ^ 「フジは「面白さ」を追求 遠藤龍之介社長に聞く」『読売新聞東京』、2019年9月9日、夕刊。
- ^ “過去の教科書 - 教育出版”. www.kyoiku-shuppan.co.jp. 2024年1月13日閲覧。
- ^ “過去の教科書 昭和52年度版”. 教育出版. 2022年11月30日閲覧。
- ^ 国立国会図書館. “所蔵調査 教科書に載った遠藤周作著「白い風船」について”. レファレンス協同データベース. 2022年11月30日閲覧。
- ^ 全日本CM協議会 編『CM25年史』講談社、1978年1月15日、245 - 246頁。NDLJP:12025175/127。
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- ^ "遠藤周作 封印された原稿". NHK. 2021年10月9日. 2021年10月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月15日閲覧。
- ^ "遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる 「前編 日本人のキリスト教を求めて」". NHK. 2021年10月31日. 2021年10月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年10月28日閲覧。
- ^ "遠藤周作没後25年 遺作『深い河』をたどる 「後編 宗教の壁を越える"玉ねぎ"」". NHK. 2021年11月7日. 2021年11月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月5日閲覧。
- ^ “遠藤周作の未発表作見つかる(2010年4月25日(日)掲載) - Yahoo!ニュース”. Yahoo Japan Corporation.. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月15日閲覧。
- ^ “遠藤周作さん未発表小説発見 長崎の文学館 完成状態では初”. 西日本新聞ニュース. 2020年10月1日閲覧。
- ^ 川崎友理子 (2020). “遠藤周作未発表小説「影に対して」について”. 三田文学 夏季号: 50.
- ^ “遠藤周作 『影に対して―母をめぐる物語―』 | 新潮社”. www.shinchosha.co.jp. 2020年11月14日閲覧。
- ^ “作品情報 - 黄金の国”. 昭和音楽大学オペラ研究所 オペラ情報センター. 2019年3月15日閲覧。
遠藤周作
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小説家。晩年の代表作『深い河』は、『暁の寺』で描かれたベナレスが舞台となっており、人生観の広がりに『暁の寺』の影響が見られる。遠藤に連れられて三島邸を訪問したことのある秋山駿は、玄関で出迎えた三島に遠藤が花束を手渡していたエピソードを語っている。遠藤はクリスチャンであったが、三島の自死について「社会的には批判もあろう。しかし、三島さんの思想と行動は、最後の一点で完全に結びついた、壮烈であり、清潔である」と理解を示し、作家の中では珍しく憂国忌発起人として名を連ねた。織田信長の妹・お市をモデルに描いた遠藤の遺作『女』には、三島の『天人五衰』の結尾と酷似する描写もある。
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遠藤周作
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