オグリキャップ
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引退後
種牡馬となる
引退後は北海道新冠町の優駿スタリオンステーションで種牡馬となった。1991年1月28日に繋養先の優駿スタリオンステーションに到着[196]。優駿スタリオンステーション到着時には300人以上が出席して歓迎セレモニーが行われて新冠町長が挨拶を行い、同夜にはテレビ番組『ニュースステーション』に生出演した[187][197]。
種牡馬となったのちのオグリキャップは2代目の馬主であった佐橋が所有し、種付権利株を持つ者にリースする形態がとられた。これは実質的にはシンジケートに等しく[† 76]、その規模は総額18億円(1株3000万円(1年あたり600万円×5年)×60株)であった[198]。当初は余勢をほぼ取らない方針だったものの、シンジケートに加入できなかった生産者・馬主がわずかに放出された株に殺到し、種付けシーズン直前の2月13日に行われたJSカンパニー主催のノミネーションセールでは、取引株の中で最高価格となる990万円の値が付いた[196]。
3月12日にヤマタケダンサーを相手に初種付けを行い[† 77]、翌日のスポーツ紙2紙の1面にはこの時の種付けを行っている写真がカラーで掲載された[196]。ゴールデンウィーク中の5月5日にはオグリキャップを見学するために、当時の新冠町の人口に匹敵する6000人が優駿スタリオンステーションを訪れた[199]。オグリキャップの人気は種牡馬となった後も衰えず、優駿スタリオンステーション事務所には好物のニンジン、リンゴ、ハチミツが毎日届けられ、夏休みには見学のための観光バスが行列を作った[196]。プレハブ建てのグッズショップも作られたが、すぐに手狭になったため豪華な店舗がオープンした[196]。ライターの後藤正俊によると、新冠町がある日高地方は名所が少なく、それまで本州の観光客がほとんど訪れなかったが、オグリキャップが種牡馬入りしたことで地域経済に多大な影響をもたらしたという[196]。同時にオグリキャップが種牡馬入りしたことをきっかけに競馬ファンが競走馬の「生涯」に興味を抱くようになり、競走馬育成ゲーム、POGを通じて競馬人気の沸騰につながったと述べている[196]。
1994年に産駒がデビューし、JRA新種牡馬リーディングにおいては首位となったサンデーサイレンスに大きく水をあけられたものの、内国産種牡馬としては最上位となる6位にランクインし、アーニングインデックスは1.75を記録した[200]。しかし、後述の喉嚢炎を発症したことがきっかけで年を経るごとに交配牝馬のレベルが徐々に低下し、シンジケートが再結成された1996年からは交配頭数も減少し、1998年にはわずか10頭にまで落ち込んだ[200]。
喉嚢炎を発症
1991年7月28日、オグリキャップが馬房の隅でぐったりとしているのが発見され、発熱、咳、鼻水などの症状がみられるようになった[201]。はじめは風邪と診断されたが、1か月が経過しても熱が下がらず、さらには飼い葉、水も飲み込めなくなるなど回復がみられず[200]、精密検査の結果、喉嚢炎[† 78]による咽頭麻痺と診断された[200]。これを受けて8月からファンの見学は禁止となり[200]、同月下旬から3人の獣医師によって治療が施されたが、9月11日には炎症の進行が原因で喉嚢に接する頸動脈が破れて馬房が血まみれになるほどの大量の出血を起こし[200]、生命が危ぶまれる重篤な状態に至った。合計18リットルの輸血を行うなどの治療が施された結果、10月上旬には放牧が可能な程度に病状が改善した[202]。
オグリキャップにちなんだレースの開催
1992年、笠松競馬場でオグリキャップを記念した「オグリキャップ記念」が創設された。一時はダートグレード競走として行なわれていたが、現在は地方全国交流競走として行われている。また、2004年11月21日にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンの「名馬メモリアル競走」として「オグリキャップメモリアル」が施行された[† 79]。
種牡馬を引退
2006年に2頭の繁殖牝馬と交配されたのを最後に種牡馬を事実上引退[† 80][200]し、引き続き功労馬として優駿スタリオンステーションに繋養されていた。2007年5月1日にはグレイスクインがオグリキャップのラストクロップとなる産駒、ミンナノアイドルを出産した。2012年7月1日の金沢競馬の競走でアンドレアシェニエが予後不良となったのを最後に、日本国内の競馬場からオグリキャップ産駒は姿を消した[203]。
- 年度別の種付け頭数および誕生産駒数[196]
年度 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 2007 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
種付け頭数 | 65 | 60 | 61 | 61 | 61 | 60 | 42 | 10 | 13 | 7 | 4 | 6 | 1 | 6 | 1 | 2 | 0 |
誕生産駒数 | - | 58 | 51 | 49 | 45 | 50 | 40 | 25 | 6 | 7 | 3 | 2 | 5 | 1 | 3 | 0 | 1 |
一般公開
競走馬を引退した後、オグリキャップは2002年に優駿スタリオンステーションが移転するまでの間、同スタリオンで一般公開され、観光名物となっていた[204]。また、同スタリオン以外の場所でも一般公開された。1998年9月によみうりランドで行われた「JRAフェスティバル」、2005年4月29日と30日に笠松競馬場で行われた一般公開[205][† 81]、2008年11月9日の「アジア競馬会議記念デー」に東京競馬場で行われた一般公開である[187]。2010年5月1日より優駿スタリオンステーションでの一般公開が再開された[206]。
骨折により安楽死
2010年7月3日午後2時頃、優駿スタリオンステーション内の一般公開用のパドックから馬房に戻すためにスタッフが向かったところ、オグリキャップが倒れて起き上がれないでいたところを発見する。ぬかるんだ地面に足をとられて転倒したとみられ、その際に右後肢脛骨を骨折していた。直ちに三石家畜診療センターに運び込まれるが、複雑骨折で手の施しようがなく、安楽死の処置が執られた[206][207][208]。オグリキャップ死亡のニュースは日本のみならず、共同通信を通じてイギリスの『レーシング・ポスト』などでも報じられた[209]。優駿スタリオンステーションにはオグリキャップ死亡の真偽を確認しようというマスコミやファン、関係者からの問い合わせの電話が相次ぎ、翌日午前1時30分まで問い合わせが続いた[207]。
追悼
オグリキャップの死を受けて、同馬がデビューした笠松競馬場では場内に献花台と記帳台を設け[210]、7月19日にお別れ会を催した[211]。JRAでも献花台・記帳台を設置するなど追悼行事を営み[212]、感謝状を贈呈した[213]。引退後に同馬が繋養されていた優駿スタリオンステーションにも献花台が設置された[214]。さらに、中央競馬[212]とホッカイドウ競馬[215][216]ではそれぞれ7月に追悼競走が施行された。
7月29日には新冠町にあるレ・コード館でお別れ会が開催され、ファン、関係者ら800人が出席[213]。土川健之JRA理事長が弔辞を述べ、全国で集められた1万3957人分の記帳が供えられた[213]。
第55回有馬記念が行われる2010年12月26日をオグリキャップメモリアルデーとし[217]、同日の中山競馬第11競走「ハッピーエンドプレミアム」にオグリキャップメモリアルを付与して実施された。
一周忌となった2011年7月3日には、種牡馬時代を過ごした優駿SSに接する「優駿メモリアルパーク」に新たな銅像が設置された[218][† 82]。
オグリキャップの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ネイティヴダンサー系 |
[§ 2] | ||
父 *ダンシングキャップ Dancing Cap 1968 芦毛 アメリカ |
父の父 Native Dancer1950 芦毛 アメリカ |
Polynesian | Unbreakable | |
Black Polly | ||||
Geisha | Discovery | |||
Miyako | ||||
父の母 Merry Madcap1962 Dark Bay or Brown[375]あるいは黒鹿毛[376] |
Grey Sovereign | Nasrullah | ||
Kong | ||||
Croft Lady | Golden Cloud | |||
Land of Hope | ||||
母 ホワイトナルビー 1974 芦毛 北海道新冠町 |
*シルバーシャーク Silver Shark 1963 芦毛 アイルランド |
Bussion Ardent | Relic | |
Rose o'Lynn | ||||
Palsaka | Palestine | |||
Masaka | ||||
母の母 ネヴァーナルビー1969 黒鹿毛 |
*ネヴァービート | Never Say Die | ||
Bride Elect | ||||
センジュウ | *ガーサント | |||
スターナルビー | ||||
母系(F-No.) | 7号族(FN:7-d) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Nasrullah 4×5、Nearco 5×5 | [§ 4] | ||
出典 |
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注釈
- ^ a b c JRA賞の部門名はいずれも当時の名称。
- ^ 小栗がダンシングキャップを希望した理由としては、東海地区(名古屋・中京)の大レースを目標に定めたという理由や[4]、「笠松競馬向きのダートコースに強い産駒を」という思わくがあった[6]。
- ^ ホワイトナルビーを繋養していた稲葉牧場については小栗に賛同して鷲見を説得した[7]とも、そもそもダンシングキャップとの交配を提案したのは稲葉牧場だった[9]とも、一旦は交配を躊躇したものの小栗に押し切られる形で同意した[10]ともされている。
- ^ 具体的には馬主の小栗と稲葉牧場の間で、小栗が管理にかかる費用と種牡馬の種付け料を負担し、生まれた産駒の所有権を半分ずつ持つ取り決めがなされていた。
- ^ 脚が外側を向いていること。
- ^ 蹄を削ること。
- ^ 稲葉牧場は近くに鳧舞川が流れ、肥沃な土地に生える良質な青草が生えていた[11]。稲葉牧場は土も良く、場長の稲葉不奈男はある時、専門家に土質を検査してもらったことがあり、検査結果は当時理論的に土の改良を重ねていたメジロ牧場の土壌とその成分がほとんど同じだった[16]。稲葉はハツラツが生まれる以前の生産馬に50から70戦のレースに出走しても脚元が丈夫で故障する馬が少なかったことについて、土質の良いことを挙げている[17]。
- ^ 成長したオグリキャップは熱が出たりコズミ(筋肉痛)が出たりして獣医師に栄養剤を注射されても食欲が衰えることがなく、引退までに下痢をしたことは一度もなかった[18]。
- ^ 笠松競馬場の調教師後藤義亮の妻が笠松競馬の馬主会の支援を受けて運営していた育成牧場。現在は閉鎖されている。
- ^ 地方競馬では、1990年まで馬名について促音・拗音の使用が認められていなかったため。なお、発音は「オグリキャップ」である。
- ^ 中央競馬時代のオグリキャップの診察を担当し、その心臓がいわゆるスポーツ心臓であったと指摘している獣医師の吉村秀之は、NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』の特別企画「競走馬・オグリキャップ」におけるインタビューで、このハイペースの起用がオグリキャップにスポーツ心臓を与えることになったと推測している。
- ^ 師走特別では3歳馬ながら古馬相手に6馬身差で勝利した[26]。
- ^ スタート時にゲートを出るタイミングが遅れること。
- ^ 理由は三浦が人間関係に苦しんで厩務員を辞めたため[31]。
- ^ 蹄の内側が腐る疾病。
- ^ 蹄叉腐乱は、蹄の手入れを怠ったことが原因で発症する疾病であるため、川瀬は三浦を気遣い、この事実をオグリキャップの引退からおよそ15年後の2005年に出版された『いま、再びオグリキャップ』において初めて明らかにした[32]。
- ^ 当時は地方と中央の共同使用。
- ^ 走破タイムは中央競馬の古馬500万下に相当するものであった[35]。
- ^ 小栗は1994年に行われた杉本清との対談で、ダンシングキャップ産駒の特徴である発馬の悪さを理由に1200万円での売却を検討したが、交渉がまとまらなかったと述べている[38]。
- ^ 実際に小栗はオグリキャップが優勝したレースの記念撮影に加わっている[41]。
- ^ ただし鷲見は中央移籍後のオグリキャップのレースは積極的に観戦しており、ペガサスステークスを除き全て競馬場で観戦した[43]。
- ^ 調教師の瀬戸口は「期待半分不安半分」、厩務員の池江敏郎は「最初だし、GIIIで2、3着に来てくれたら充分」、鞍上を務めた河内は「強いことは確かだと思った。でも、どこまで強いかは未知数」と思っていた[49]。
- ^ 杉本によると、レース前にオグリキャップに対して「なんでこんなに人気なんだろう。たかが笠松の馬じゃないか」という気持ちがあったといい、レースでも勝つのはラガーブラック、オグリキャップは3、4着と予想し、杉本曰く「ナメて実況していました」というが、オグリキャップが直線で見せた脚を見て「これは自分の見方がまちがっていた、こいつは噂どおりだ」と思い知らされたという[51]。
- ^ 中央競馬のクラシック競走に出走するため前年に行う予備登録。総額40万円を第1回(3歳<現2歳>10月締め切り)に1万円、第2回(4歳<現3歳>1月締め切り)に3万円、残りは当該クラシック競走の開催2週間前の金曜日までに36万円と3分割で払う必要があるが、当時は地方所属馬は中央への移籍手続きを完了させたうえで、第1回締め切り時までに申し込まなければ、内国産馬であってもクラシック競走に出走することは不可能であった[55]。なお、中央競馬は1992年からクラシックの追加登録制度(事前のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料200万円を払えばクラシック競走に出走登録できる制度)を導入、地方所属馬も中央との交流促進の一環として1995年以後は地方在籍のままでクラシック出走を可能とした。
- ^ a b 河内は同じ日に東京競馬場で行われたNHK杯でサッカーボーイに騎乗した。
- ^ なお、競馬マスコミの一部にはGIの宝塚記念で古馬と戦うべきだという意見もあった[59]。
- ^ 河内はレース後に「まったく追っていないのに(1分)34秒フラットでしょ。びっくりですよ」と語っている[27]。
- ^ 笠松競馬場時代には、3歳時に10戦目の師走特別で古馬と対戦している。
- ^ 従来の記録は1972年にハイセイコーが記録した4連勝[63]。
- ^ 中央競馬において顕著な実績を残している競走馬は、夏期は避暑のために北海道へ移送されることが多い。
- ^ この記録は2000年に重賞8連勝を達成したテイエムオペラオーによって破られた後、2018年にJRA障害競走重賞を9連勝したオジュウチョウサンによって再度更新されている。
- ^ 400万下、400万特別、重賞5勝(うちGIの天皇賞(春)と宝塚記念)。
- ^ ただしレース10日前の12月15日には岡部の提案により、スクーリングのために有馬記念が行われる中山競馬場で調教が行われた[75][77]。これは瀬戸口が岡部にオグリキャップが輸送しても体重が減らないこと、冬場は太る傾向があること、中山競馬場ではまだ未出走であることを伝えたところ、岡部が中山での調整を提案して実現した[78]。
- ^ 瀬戸口にとっても1973年3月に調教師免許を得て以来、初のGIの勝利であった[77]。
- ^ クラシック競走未勝利の馬による最優秀4歳牡馬の受賞は、啓衆社賞・優駿賞時代を含めても史上初。
- ^ 馬体重を落とすために、鞍の下に毛布を掛ける等して発汗量を増やす工夫。
- ^ 小栗はオグリキャップの活躍後に中央の馬主資格を取得し、1994年には半妹・オグリローマンが桜花賞を優勝している[37]。
- ^ 事前のクラシック登録がされていなくても、後で追加登録料200万円を払えばクラシック競走に出走登録できる制度。この制度が制定された後、1999年皐月賞においてテイエムオペラオーが追加登録制度を利用した競走馬として初めてクラシック競走を制覇した。
- ^ 佐橋は一時、アメリカで馬主資格を取得してオグリキャップを移籍させることや、競走馬を引退させ種牡馬にすることも考えたが、断念した[92]。
- ^ なお、佐橋と近藤の間にはオグリキャップが種牡馬となった際に佐橋が近藤に対し何らかの利益を得るという口約束も交わされており、実際にオグリキャップが引退した後、佐橋の所有する種付け権1株が近藤に無償で譲渡された[97]。
- ^ 山本徹美によると1989年のジャパンカップ終了後、近藤は佐橋に翌1990年のローテーションについて相談をしている[98]。
- ^ なお、近藤は購入時点で24年間中央競馬の馬主資格を保持していたが一度も重賞を優勝したことがなく、どうしても中央競馬の重賞やGIを勝ちたいということが購入の動機としてあった[94][93]。
- ^ メジロマックイーンやディープインパクトなどを管理した池江泰郎の兄。
- ^ 超音波治療機による治療は以後、温泉療養施設以外の場所でも常に行われた。
- ^ 騎乗した南井はレース後、「中距離のゆるい流れのレースばかり使っていたので、マイル戦の速い流れに苦労したのでしょう。」と回顧している[112]。
- ^ 逃げたイブンベイの1800mの通過タイムが当時の芝1800mの日本レコードを上回る1分45秒8を記録した。
- ^ ただし、競馬における計時方法(計測開始時点が異なる)、計測単位(1/100秒〜1/5秒)などは国・州などによって異なる。
- ^ 同タイムで走破したのに敗れたことから、ホーリックスが南半球のオセアニア産馬であることに引っ掛けて「北半球最速馬」と言う呼び方をしたファンもいた。
- ^ このタイムは2005年のジャパンカップでアルカセットが更新するまで17年に渡って保持された[116]。
- ^ 栗東トレーニングセンターの競走馬診療所に勤務していた獣医師の松本実は「京都で走って、東京へ輸送して、そしてすぐにレースに臨むというのは、馬にとっては相当にこたえること」であり、「常識的に考えればちょっと過酷」と述べた[119]。
- ^ 競馬評論家の大川慶次郎は、「ああ、オグリはもう今年で終わりだな」と思ったと述べている[120]。
- ^ ライターの藤井幸介は「無茶苦茶だ」、「人の欲にまみれた使い方だ」と陣営を非難した[121]。
- ^ なお、2代目の馬主であった佐橋はオグリキャップの賞金獲得額を世界歴代1位にすることを目標とし、「馬に対する馬主の責任」と述べていた[137]。また3代目の馬主であった近藤も、10億円をクリアすれば世界一として国際的に認められると述べ、また「ルドルフに強さではかないません。でも、ルドルフができなかったことはやってみたい。ぜひ、アメリカで勝たせたい」と述べた[136][138]。
- ^ a b ただしスーパークリークはレース1週間前に故障を発症して出走を取り消し[140]、武は当日のレースでシンウインドに騎乗した。
- ^ 脚の関節に柔らかい腫れが出る疾病。
- ^ 引退論は競馬ファンやマスコミのほか、翌年から種牡馬となることが決定していたオグリキャップの種付け権を持つ者からも上がった[144][145]。
- ^ a b 出走を取りやめなければ近藤の自宅および競馬場に爆弾を仕掛けるという内容。
- ^ ただし、近藤は脅迫状が届く以前にも深夜に自宅宛てに嫌がらせの電話がくるといった被害を受けていた[149]。
- ^ 当時200人強いたとされるスポーツ紙、競馬専門紙の予想家の中でオグリキャップに本命の◎を打ったのはわずかに4人だけであった[152]。
- ^ 競馬評論家の大川慶次郎は、この時期のオグリキャップの体調は一貫して悪かったとしており、天皇賞(秋)の前に栗東トレーニングセンターでオグリキャップを見て体調が悪いと判断し、以降一貫して予想において無印とした[155]。
- ^ 鷲見昌勇は天皇賞(秋)の後栗東トレーニングセンターでオグリキャップを見た際、「馬(の体)が寂しく見えた。疲れが抜けておらんのやないか」という印象を抱いた[156]。
- ^ 岡部幸雄は「オグリを見ると、何か小さい感じがした」と述べている[157]。
- ^ 大阪日刊スポーツの競馬評論家・梶山隆平は「秋の2戦を見たら、かつての気迫が全く感じられなかった。顔つきがまるで違うし馬体も迫力が感じられない。えらくさびしい体に見えたよ」と振り返っている[158]。
- ^ この年の秋は以前ほどの気迫を感じなかったと述べている[154]。
- ^ ジャパンカップの前には馬がおとなしすぎる、昔ほど気合が乗ってこないと述べていた[161]。
- ^ ストレスが原因で食欲が落ちているとも報道された[163]。
- ^ なお、ジャパンカップの前には厩舎スタッフからの要望によりマスコミの取材は自粛され[164]、さらに有馬記念の前には馬主の近藤が関係者以外の厩舎への立ち入りをすべて禁止した[165]。
- ^ 「元気なころのオグリとは様子が違う」「今のオグリとなら、うちのオースミでも勝負になるような気がする」と述べた[167]。
- ^ 「なんか元気ないね。昔は怖いくらいの迫力があったもんや。それが全然感じられんもんな」と述べた[168]。
- ^ 2017年にNHKで放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』特別企画「競走馬・オグリキャップ」でのインタビューに、吉村はサラブレッドの安静時の心拍数は一般的に30~40と言われているが、オグリキャップの場合はそれが24~27と低かったことを証言している。同時に池江がもっと伸ばしたかったという温泉療養施設での休養について「あの休養はむしろオグリの心肺機能を落とす結果になったんじゃないか」と指摘している。
- ^ オグリキャップがスポーツ心臓を失った原因に関して吉村は、休養の影響以外にも取材の過熱によって受けたストレスによる自律神経失調症を疑っていた[174]。
- ^ 小栗と佐橋との間には「オグリキャップが引退した時には笠松競馬場に里帰りさせる」との取り決めがあった[186]。
- ^ 笠松競馬場での引退式に参加した安藤勝己は、競馬場内が「普通ではない」と感じるほど盛り上がる中でもオグリキャップが動じる様子を見せることはなかったと振り返っている[190]。
- ^ 安藤によると、当初は1周する予定であったが、あまりの乗り味の良さに2周したという[190]。また、久々に間近で見たオグリキャップは笠松時代よりも10cmほど体高が高くなっていたという[190][192]。
- ^ 武豊は「動きは全盛時と全く変わりません。これなら春の天皇賞だっていけるのに」と感想を述べている[193]。
- ^ 種牡馬の所有権が佐橋1人にある点が、権利株の所有者が種牡馬を共有するシンジケートと異なる。
- ^ ヤマタケダンサーは翌年にオグリキャップの初仔となるオグリワンを出産した。
- ^ 馬の後頭部にある袋状の器官の炎症。
- ^ 施行条件は、かつてオグリキャップが優勝したマイルチャンピオンシップと同じ京都競馬場芝1600m。
- ^ 種牡馬登録自体は抹消されておらず、去勢もされていない。種付け料はプライベートとなっていた。
- ^ オグリキャップが笠松競馬場に来場したのは1991年の引退式以来14年ぶりのことで、4月29日には後述のオグリキャップ記念と、「芦毛伝説オグリキャップ賞」と銘打たれた芦毛馬限定のレースが開催された[205]。
- ^ 馬像建立のための募金にはのべ1274人が名を連ね、2831万円が集まった[219]。
- ^ 初めて調教で騎乗した時に「4歳なのに古馬のようなどっしりした落ち着きがある」と感じ[49]、「すごく気性がしっかりとしていて、うるさいところもまったくなかった」[192]と回顧した。
- ^ 「ひとつ年齢が違うみたいに落ちついていて利口な馬」と評した[236]。
- ^ このことについてヤエノムテキの厩務員(持ち乗り調教助手)の荻野功は「オグリキャップみたいな馬は信じられん」と述べている[237]。
- ^ タマモクロスの管理調教師であった小原伊佐美は、タマモクロスとオグリキャップを比較して「タマモクロスは神経が細くて、やんちゃな馬だけど、向こうはドシッとして落ち着きがある。年齢とは反対に、オグリが中学生としたらうちのクロスは小学生みたいに見えた」と評価し、「二頭のうちどちらに乗りたいかと聞かれたら、迷わずオグリキャップと答えるでしょう」と述べた[240]。
- ^ 1989年のジャパンカップでホーリックスに騎乗したランス・アンソニー・オサリバンは、オグリキャップがゴール板を過ぎた後もホーリックスの前へ出ようとする様子を見て、「あの勇気、真の意味で、レースホースと呼べるでしょう。ベスト・ルッキング・ホースであり、ベスト・レース・ホースです。一度でいいから、あんな馬に乗ってみたい」と評した[241]。
- ^ バンブーメモリーの管理調教師であった武邦彦は、オグリキャップを「オグリはレースに出ればいつでも一生懸命に走る。そこが偉い」と評した[242]。
- ^ イナリワンに騎乗してオグリキャップとの対戦経験を持つ柴田政人は、「オグリキャップの勝負根性は中途半端じゃない」「あの馬の勝負根性はすごいものがある」と評した[243]。
- ^ 笠松競馬場在籍時に主戦騎手を務めた安藤勝己は、最初から人の意思や競馬の仕組みを理解していたと述べている[190]。
- ^ 笠松時代の担当厩務員(2代目)であった川瀬友光は、運動をさせるときはおとなしく利口で、なんと扱いやすい馬かと思ったと述べている[31]。
- ^ オグリキャップの調教を担当した調教助手の辻本光雄は、同馬の一番の長所として学習能力の高さ(同じ物に二度物見をしない、一度叱られると同じことをしない、など)を挙げた[244]。
- ^ 栗東トレーニングセンターでオグリキャップの診察を担当していた獣医師の吉村秀之は、オグリキャップが厩舎の馬房の隅でじっと動かずにいることが多かったことについて、無駄な労力を使わないためであり賢さの現れとしている[245]。
- ^ 中央競馬時代の担当厩務員であった池江敏郎はオグリキャップについて、池江が厩舎に通勤する時に乗っていた車のエンジン音を聞き分けるなど賢い馬だったと述べている[246]。
- ^ 優駿スタリオンステーション主任の山崎努は、自身がオグリキャップの世話をすることになった際、オグリキャップの賢さ、冷静さ、理解力の高さが他に繋養されているどの種牡馬よりも優れていたという感覚を抱いたと述べている[213]。
- ^ 調教助手の荻野功は「サラブレッドは一度故障したらもろいもんやけどね、それが立ち直って、いつも全力投球しとるんやから頭が下がる」「あのタフさは、怪物どころやないよ。化け物や」と評した[252]。
- ^ 調教師の高松邦男は、過密なローテーションで出走するオグリキャップについて「よく壊れないものだと感心させられ(る)」、「オグリの持っている生命力そのものが凄い」と評した[253]。
- ^ 池江敏郎はこのことについて、「ボロを見ると、すごくよく消化されているんだ。こんな馬はいないよ」と言及している[17]。1989年の有馬記念前には獣医から診断されたが、その際に獣医から「循環器系や消化器、そして肝心の心臓と肺。すべてがみごとに調和している」と絶賛された[257]。
- ^ 出血の予防と治療のために厩務員の池江は常にかかとに薬を塗っていた[260]。
- ^ 時期はニュージーランドトロフィー4歳ステークス出走後。以降対策として爪の成長を促すためゼラチンが投与された[18][261]。
- ^ 瀬戸口勉によるとオグリキャップの蹄は「ものすごく大きくて、底が薄い」といい、オグリキャップの装蹄を担当していた三輪勝はレース時に「あんまり鞭を入れないでくれ」という思いで見ていたという[262]。
- ^ 通常調教は騎手や調教助手が行うが、ダンシングキャップの産駒はゲート試験(ゲートをスムーズに出られるかどうかの試験)を合格しないものが多かったため[264]、鷲見自ら行うこととした。
- ^ この評価について、岡部は「ルドルフはシンボリ牧場と言う、競馬界のトレセンの枠にしばられない自由な鍛錬場所に恵まれたのが幸いした。その点オグリキャップはかわいそうな気がしないでもない」と付け加えた。
- ^ 以降1989年マイルチャンピオンシップが11.9%、1989年ジャパンカップが4.2%、1990年安田記念が3.1%、その他のレースが7.2%という結果となった[146]。
- ^ 票数は1票で、オグリキャップの他にもメイヂヒカリ、メイズイ、トウメイ、カブラヤオー、トウショウボーイ、メジロラモーヌ、サクラスターオー、メジロマックイーン、ミホノブルボン、マチカネフクキタルが投票数1票で12位に選出された。オグリキャップに投票したのは和田竜二で、「少々条件が厳しくても、力の違いでねじ伏せる競馬にあこがれた」と述べている[296]。
- ^ 河内はメジロラモーヌ、岡部はシンボリルドルフ、南井はタマモクロス、武はサイレンススズカ、増沢はイシノヒカルを挙げた[297]。
- ^ 対象はJRA賞の投票委員、引退した中央競馬の調教師、競走馬生産者、JRA職員OB、競馬ファンの著名人
- ^ 競馬場の改装のために入場制限が行われていた1988年、1989年の有馬記念、前年の施行競馬場が異なる1989年のオールカマーについては比較対象から除外。
- ^ 須田鷹雄はこの改修期間を経て、「そこ(改装後の中山)へ若いファンが詰めかけ、パドックは熱気に包まれることになる」といったタイミングの良さもオグリキャップの人気につながったと指摘している[312]。
- ^ 当時、中京競馬場の電光掲示板には9億9999万9900円まで表示が可能であったが、10億を超える(最終的な売上額は10億9088万3300円)売り上げを記録したことによる。
- ^ 1988年の京都4歳特別、ニュージーランドトロフィー4歳ステークス、毎日王冠、天皇賞(秋)、有馬記念、1989年のオールカマー、天皇賞(秋)、マイルチャンピオンシップ、有馬記念、1990年の安田記念、宝塚記念、天皇賞(秋)
- ^ 株式会社アバンティー。佐橋はオグリキャップの競走馬名を商標登録し、さらに形態を意匠登録したため、ぬいぐるみ以外のグッズの商品化の権限もアバンティーが握っていた[327][328]。
- ^ 例えば武とオグリのコンビが初めて実現した1990年の安田記念では、女性の観客が前年の約2倍の1万3488人に増え[334]、同年の有馬記念当日は総入場者数17万7779人中、全体の10%近くを占める1万5375人の女性客が入場した[335]。これは有馬記念史上初の記録で[110]、その2年前はわずか2%であった[335]。また東京競馬場で行われたオグリキャップの引退式当日(1991年1月27日)の女性の入場者数は前年比385.5%増の9456人であった[336]。
- ^ その時刻にテレビをつけている人の何パーセントがその番組を見ているかの確率。
- ^ 高橋は研修のため、青木は肩の脱臼のため[26]。
- ^ 野平は具体的な理由として、逃げたダイナカーペンターを深追いし速いペースで走行したことと、スタート後手綱をしごいてまで2番手につけた結果折り合いを欠いたことを挙げた。
- ^ ライターの阿部珠樹は、前年の時点でのオグリキャップと武豊を「因縁浅からぬ両者」と表現し、このコンビ結成は「大げさに言えば、歴史的和解といえたかもしれない」と述べている[116]。
- ^ 安田記念のパドックでは武に対し「オグリのこと嫌いだったんじゃないのか」という罵声が浴びせられ[355]、「武は降りろ。オグリを南井に返せ」という横断幕が掲げられた[114]。ただし、武によると前年の第100回天皇賞(秋)でスーパークリークに騎乗してオグリキャップを破った際に嫌がらせの手紙が山のように届くなど、既にオグリキャップのファンからは酷い目にあっていたという[356][357]。
- ^ 作家の木村幸治は武豊にとってのスーパークリークとオグリキャップの位置づけについて、「安田記念にスーパークリークが出走していたら、豊は、迷わずクリークに乗っていたはずである。豊側から見れば、クリークが"正妻"であり、オグリは"側室"でしかなかった」と述べている[359]。
- ^ 三頭については「本当に強かった。GIで当たり前のように本命になる馬に乗ったことはボクにとってすごい経験でした。強い馬とは、サラブレッドらしさとは、といったことを教えられました」と評している[360]。
- ^ 豊の父である武邦彦は「(平成三強の)すべてに騎乗した豊が羨ましい」と語り、「私にしてみれば、ターフビジョンのある所で乗れるだけでも羨ましいのに、あの年代の最強馬全部に乗れたなんて、騎手にしてみれば最高の栄誉でしょう」と述べている[361]。
- ^ 理由について、「競走馬はペットじゃないから、可愛い、という感情を持たないようにしてますけど、クリークには『強くなってくれるんじゃないかな』と思っていたら本当に強くなってくれた、という意味での思い入れはあります」と述べている[360]。
- ^ 「ほんとにスタートが上手いし、馬への当たりがいいね。正直いって、あれほどのレース見せられるとは思わなかった」と評した[363]。
- ^ 『豊らしいレース』として思い浮かぶのがこの有馬記念だといい、「もしかしたら、違う騎手が乗っても勝ったかもしれない。だけど、そこにいたのは武豊だった。そして結果を出した。それが、他の人にはない輝きであり、スター性であり、豊らしさだと思う」と評した[356]。
- ^ オグリキャップへ再び騎乗することを拒否するための口実作りであったとも言われる[364]。
- ^ 長手綱という。これで岡は「馬に遊ばれた」と酷評された[150]。
- ^ ハツ子は増沢の初勝利馬ワンスターの馬主でもあった。
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