NICAP
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1956年に「アメリカ空中現象調査委員会(NICAP)」という民間の組織がタウンゼント・ブラウンにより設立された。翌年の1957年には当時知られていた民間研究者であるドナルド・キーホーが会長に任命された。キーホーは機関誌「UFO Investigator」を出版し、これまで未公表であった管制塔によるUFO目撃事例などを掲載し反響を呼んだ。NICAPもAPRO同様、UFO目撃情報の収集・分析を行ったが、APROとは違いUFOの「搭乗者」を含めた情報の収集は拒否した。これは当時センセーショナルに扱われていた「コンタクティー」の存在をキーホーが嫌ったためであったが、ソコロUFO事件が起こると、NICAPはこのスタンスを再考する事となった。またNICAPはUFO情報の収集活動に留まらず、広報活動などを通してUFO問題に関して空軍に圧力をかけることもあった。キーホーが指揮をしている間のNICPの影響力は大きく他のUFO研究団体を大きく凌ぐものであり、NICAPの圧力は空軍にとって大きな懸案であり、当時、議会の中でUFO問題が大きく取り扱われたこともNICAPの影響によることが大きかった。 「ドナルド・キーホー」を参照
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NICAP(ナイキャップ)
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「ドナルド・キーホー」の記事における「NICAP(ナイキャップ)」の解説
1956年10月24日、キーホーはアメリカ海軍の物理学者トーマス・タウンゼント・ブラウンによる全米空中現象調査委員会(National Investigations Committee on Aerial Phenomena :NICAP、読みはナイキャップ)の設立を援助する(NICAPは後にアメリカ最大の民間UFO研究団体となった)。NICAPは会の首脳部に軍人や科学者などのプロフェッショナルな人材を迎え、これによってNICAPは他のUFO愛好団体とは大きく異なった性質を持つようになった。 創設者であるブラウンは、不適切な経理処理を繰り返したあげく、キーホーによって1957年初めに委員会を放逐された。同年、キーホーが会長に就任。以降13年間に渡って会長職を務めた。 NICAPのメンバーは、1960年代初期から半ばまで、そのピーク時で約15,000人いたとされる。マスメディアや一般大衆からは論争の指導的立場にあるとして注目されていたが、公的機関からはほとんど注目されていなかった。 財政的にNICAPの首根っこを押さえたキーホーは、組織をあげてUFOの公的な調査と審理を議会に対して迫っていくことになる。彼らは連邦議会に対して、「空軍はUFOの情報を独占している」「空軍はUFOが宇宙人の宇宙船だと知っているのに、その事実を隠している」「アメリカ国民には真実を知る権利がある」「UFO目撃証言に対する空軍の処置が適切であったか調査しろ」といった請願を再三再四行った。空軍は、報告ファイルの中に機密情報が含まれていることを理由にその公開を拒み続けた。 1965年以降、それまで民間のUFO団体と空軍の間でだけ戦わされていた論争に、各種報道機関、連邦議会、科学者たちが加わり始めた。世間でのUFO熱の高まりに対してアメリカ空軍は、空軍の公的UFO調査計画「プロジェクト・ブルーブック(英語版)(Project Blue Book)」と平行して、1966年10月、コロラド大学の物理学教授エドワード・U・コンドンを委員長に据えた調査委員会(通称、コンドン委員会)に学術調査を委託する。 1969年、コンドン委員会は、最終報告書『未確認飛行物体の科学的研究』をまとめ、「UFOが地球外生命体の乗り物であるという説には、なんの証拠も認められない」という結論を報告した。これを受けて空軍は、プロジェクト・ブルーブックを閉鎖した。 だがキーホーはいわゆる「トリックメモ」を公表することで対抗した。これは、コンドン委員会のメンバーによって書かれたとされるメモで、表面上は客観的で中立であるはずのコンドン委員会が、研究を開始するより以前にこの報告書の内容を決めていたとする暴露メモであった。 1969年、キーホーはUFO情報の隠蔽先としてその活動の焦点を空軍からCIAに移す。しかし同年、ジョセフ・ブライアン三世大佐(Colonel Jospeph Bryan III)に率いられたNICAPは、キーホーに対してNICAPのチーフからの辞任を要求する。実はブライアンは、かつてCIAの心理作戦部の長官を務めた経歴があり、CIAのエージェントでもあった。ブライアンの下で、NICAPは1973年に完全に解散した。 1973年、キーホーは「オペレーション・ルアー(Operation Lure)」(地球外生命体を地上に誘う計画)について書いた別のUFO本『未知なるUFO (Aliens From Space)』を刊行した。 この後、キーホーはUFO研究からほぼ遠ざかった(ただしNICAPから追放された後も、いくつかのUFO会議において公演を行っている)。 1981年、キーホーはMUFON(相互UFOネットワーク、Mutual UFO Network)の取締役会に加わった。しかし、健康上の理由もあり彼の活動はほぼ名義上だけのものであった。
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