30代後半以後
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安政5年(1858年)ごろ、30代後半の壮年であった井月は突然伊那谷に姿を現す。以来約30年の間、この地で死去するまで上伊那を中心に放浪生活を送り続けた。 井月は文政5年(1822年)、越後の長岡藩(現・新潟県長岡市およびその周辺地域)生まれと推測されている。井月の少年期から伊那谷に現れた30代半ばまでの行状は全く不明であるが、巷説によると天保10年(1839年)には一旦江戸に出ているという[要ページ番号]。嘉永5年(1852年)に長野にて版行された吉村木鵞の母の追悼集に、井月の発句「乾く間もなく秋暮れぬ露の袖」が見える。また翌年、同じく長野で開板された吉村木鵞編纂の句集『きせ綿』に「稲妻や網にこたへし魚の影」の句が採られており、この頃には俳人として活動していたと推測される。 元来、伊那谷は「多少好学の風があり、風流風雅を嗜む傾き」のある土地であったため、書が上手く俳諧の道に練じていた井月は、文化人として伊那谷の人士から歓迎された。こうして井月は伊那谷の趣味人たちに発句の手ほどきをしたり、連句の席を持ったり、詩文を揮毫する見返りとして、酒食や宿、いくばくかの金銭などの接待を受けつつ、南信州一帯を放浪しながら生活した。井月は「典型的な酒仙の面影が髣髴とする」ほどの酒好きであり、「人の顔さえ見れば酒を勧める」悠長な土地柄であった伊那谷は、ほとんど金銭を持たず蓄えも無かった井月にとっていつでも酒の相伴にあずかることの出来る魅力的な土地であったようである。体中虱だらけで、直ぐに泥酔しては寝小便をたれたという井月を土地の女性や子供たちは「乞食井月」と呼んで忌避したが、俳句を趣味とする富裕層の男性たちが井月を優遇し、中には弟子として師事するものもいた。 文久3年(1863年)5月、高遠藩の当時の家老・岡村菊叟と面会し、句集『越後獅子』の序文を乞う。『越後獅子』は井月が京都・江戸・大阪をはじめ各国の俳人の発句を集めた句集であり、書名は菊叟の命名による。また、この序文は井月が長岡出身と自称していたことを記した最初の記録となる。 元治元年(1864年)、善光寺宝勝院の梅塘をたずねて100日間ほど滞在し、『家つと集』を編集する。 明治2年(1869年)、富県村(現伊那市)の日枝神社の奉納額を揮毫。翌年には東春近村の五社神社、西春近村の地蔵堂の奉納額を揮毫。この後もたびたび社寺の奉納額を手がけている。明治5年(1872年)9月、伊那村にて「柳廼舎送別書画展覧会」が開催され、出席者は113名を数えた。明治7年(1874年)、美篶村(現伊那市)の橋爪玉斎と句画を合作している。明治9年(1876年)9月、伊那町の唐木菊園のもとで『菊詠集序』を執筆。 明治12年(1879年)3月、上水内郡(現長野市中条)の久保田盛斎のもとで、『俳諧正風起證』を執筆。この頃、当地に庵を立てて定住しようと試みたことが久保田宛の書簡から読み取れる。同書簡中には新しい庵に移住するため長岡で戸籍を取る必要を述べているが、これも井月の出自の論拠となっている。しかし、手続き上に問題があり、定住は叶わず南信州に帰還した。 明治18年(1885年)秋ごろ、句集『余波の水茎(なごりのみづぐき)』を刊行。本書は、井月が集めた諸家の発句をまとめ、井月の弟子であった美篶村の塩原梅関(本名折治)が開板したものである。本書の跋として井月は後に代表句と評される「落栗の座を定むるや窪溜り」を、「柳の家」の署名とともに残している。同年、井月の健康を案じた塩原梅関の取り計らいにより塩原家に入籍し、塩原清助と名乗る。 明治19年(1886年)12月末ごろ、伊那村にて病のため道に行き倒れになっているところを発見される。塩原家に運び込まれ看病を受けるものの、翌年の明治20年(1887年)2月16日に、66歳にて没する。大正9年(1920年)、塩原家にて三十三回忌が営まれ、句碑が建てられている。
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