3代目(1982-1992年)C3系
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「アウディ・100」の記事における「3代目(1982-1992年)C3系」の解説
上級グレードについては、アウディ・200も参照 1982年にモデルチェンジしたアウディ100は、Cd値0.30の空力ボディを持つ。全長4,805mm、全幅1,815mm、全高1,420mm。1980年代前半というのは、欧州自動車メーカでそれまで脈々と研究されていた空力リファインが、具体的なモデルとして登場しはじめた年代である。ボディの空力デザイン自体は、1960年代から先ずはレーシングカーの最高速向上を目的に始まり、次に効率的な乗用車というテーマに波及していった。この小排気量で高速巡航を可能にするというテーマは陸続きで高速移動を可能にするインフラの整った欧州においては充分に現実的な問題であり、これに従って幾つかの習作(ピニンファリーナ・CME1600)やシトロエン・GS/CX、NSU・Ro80などの先駆者が1970年代に既に登場している。1980年には、レーシングカーやプロトタイプ以外で空力に無頓着であったメルセデスが、最上級のSクラス(W126)において空力的なボディ(Cd0.36)を纏うという新たな技術の方向性を打ち出した。このような流れの中で、アウディ100では以前にもないほど徹底的な空力的リファインを行い、ボディ下面やホイールハウス回り、窓枠のフラッシュサーフェス化などのアイディアによって、2.2Lの小排気量で200km/hの巡航を可能にした。実際に、より大柄で室内スペースの広いC3の2.2L NAモデルが、ターボ過給されたC2の200 5Tのように静粛で速く、ずっと燃料費は低い。これらの魅力は非常に好評で、その後他社のモデルは空力ボディの追求なしにはリリースできなくなる。そういう意味でアウディ100が空力ボディの嚆矢であるかのように云われる。 C3はモデル中期にダッシュボードを含む内装のマイナーチェンジを行う。その際に新たに導入された安全技術として「プロコン-テン(procon-ten)」と呼ばれる衝撃吸収システムがある。これは衝突時にエンジンが後方に押し込まれる力を利用してボディ-エンジン-ステアリングを結んだワイヤーがステアリングを前方に引き込む装置で、当時メルセデスが先陣を切っていたSRSエアバッグシステムに代わる安全装置として考案された。まだSRSエアバッグが一般化する以前、アウディはエアバッグ展開用の火薬の信頼性を疑問視したものと思われる。 アウディ100は徹底した空力追求による効率化により、1983年度のヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーを受賞。日本でもモーターマガジン主催のワールド・カー・オブ・ザ・イヤー賞を受賞している。 ボディは2ドアセダンが廃止され、4ドアセダンとステーションワゴンのアヴァント、計2種がラインナップされていた。上級版のアウディ200も引き続き設定され、165馬力だった2.2L 5気筒ターボエンジンは、最終的にDOHC 20V化され220馬力を発するようになる。 アウディは、ラリー競技でアウディ・クワトロ(通称ビッグ・クワトロ)の実力を確かめると、フルラインクワトロ化を目指し、100/200系もついにクワトロ版が登場する。当時クワトロシステムの駆動力の強力さを強調するため、スキーのジャンプ台をアウディ100クワトロが登り切るというテレビCMを放映していた。なお2005年にはクワトロ登場から25周年を記念し、A6クワトロを使用し、リバイバルCMが放映された。 アメリカでは引き続きアウディ5000の名で販売されていたが、1986年11月、CBSテレビの人気ドキュメンタリー番組「60 Minutes」が、相次ぐ5000(オートマチック仕様)の暴走事故について扇情的に報じた。これによって5000にはネガティヴなイメージが定着、88年モデルを最後に100/200の名称に改められた(ブレーキとアクセルの踏み間違え事故の項も参照のこと)。
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