高校時代以前のエピソードについて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 13:57 UTC 版)
「吉野敬介」の記事における「高校時代以前のエピソードについて」の解説
2001年の著書では、実家が「貧乏だった」として「オレにとって住まいとしての『家』の原風景は、四畳半一間に一家4人で暮らしていた家だ。もちろん、風呂はナシ」など貧しかったエピソードが紹介されているが、2006年以後の著書では、父親のことは「慶應を出て、ある一部上場企業の部長」、母親のことは「月収150万、ボーナス300万もザラって人だった」と書かれている。 2001年の著書では「ただし、いじめっていうのはやらなかった。だって、いじめって卑怯だろ」、2007年の著書では「およそ考えられる人間の行為の中で、この『いじめ』ほど、愚かで恥ずかしい行為はない」、2008年の著書では「だけど、イジメなんてものはしたことがなかった」、と書かれている。しかし、別の機会には以下のような経験を述べている。1991年の著書で「技術家庭の作品や美術の絵は、パシリ(遣いっぱしりをやるヤツのこと)にやらせて、自分は名まえだけ書いて提出する」と書いていた。 小学校時代、クラスにいた大嫌いな金持ちの同級生に対して、「授業中も先生が黒板に書いてる隙を狙って、消しゴムちぎって後ろからカーンと投げてやる。飯田に当たったら勝ちなんていうゲームあってな」と述べている。また、その同級生について、「大嫌いなんだけど、1年に1回仲良くするんだ。いつ?飯田の誕生日な。なんで?うめぇもん食えるから」と述べ、その際「飯田の部屋からラジコンはかっぱらう、ドカベン全巻かっぱらう」という話を述べている。 1991年の著書では、自身が高校で3回停学になったエピソードが随所に登場していたが、2009年の著書では「俺の母校は3回停学をくらうと退学になる、という決まりがあった」として、友人が3回停学になって退学になったエピソードが書かれている。 停学に至る自身の体験として、1991年の著書では「敵が40人いるにもかかわらず一人で仕返しに行き、オレの友だちをやっつけた奴を“病院送り”にしてしまったのだ」と書かれていたが、同著を文庫化・加筆修正した版では「敵が5人いるにもかかわらず一人で仕返しに行き、オレの友だちをやっつけた奴を“病院送り”にしてしまったのだ」と人数が35人減っている。 暴走族の特攻隊長として、3000台・6000人のトップであったと当初は述べていたが、数年後には1500台・3000人となり、さらに数年後には、「最大時は1000台以上」との表現になっている。なお、3000台を率いていたときの状況として、高校3年生(1984年)の9月に神奈川県中の暴走族が集まると述べているが、神奈川県の暴走族構成員数はピークの1992年でも4841人である。 「行ける高校がなくて入ってくる、そんな高校だ」「当時神奈川県でも最低ランクの高校」など、自身の出身高校がいかに落ちこぼれているかを著作で語っているが、1987年の逗子開成高校は、早稲田5人・慶応1人・上智2人・中央7人・明治5人・立教3人・法政9人・青山学院2人・東京理科2人との合格実績がある。ほか、自身の高校時代について「専門学校に行くだけで、『すげえな、おまえ』という世界だった」と述べているが、吉野の卒業年における同校の進路状況も、「進学(各種専修学校含む)80%、就職10%、その他10%」である。 1991年の著作には『空手を習っていて結構強かった。空手の方では幾つかの強豪大学空手道部から特待生のお呼びが来た。』とある。しかし彼が在籍したのは直接打撃制だが顔面へのパンチは禁止のいわゆるフルコンルールの極真会神奈川支部(渡辺十也支部長)の大船道場。緑帯であった。そして、拓大・国士舘大・日大・駒沢大・大正大・京都産業大など大学空手道部は皆、日本体育協会傘下で文科省認可の公益財団法人・全日本空手道連盟傘下の国体空手道競技も行われている寸止めのポイント制の伝統空手である。特待生で招かれる高校生は皆、公益財団法人・全日本空手道連盟傘下の伝統空手をやる高校生でインターハイや国体などの全国規模の大会で成績を残した選手である。日本体育協会傘下でないルールも柔道とレスリング位に違う極真空手の道場に通う高校生が特待生で大学から招かれる事は有り得ない。
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