松前氏城跡とは? わかりやすく解説

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松前氏城跡
福山城跡
館城跡

名称: 松前氏城跡
 福山城跡
 館城跡
ふりがな まつまえししろあと
 ふくやまじょうあと たてじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 北海道
市区町村 松前郡松前町檜山郡厚沢部町
管理団体 松前町(昭12・3・8)
指定年月日 1935.06.07(昭和10.06.07)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成18.07.28
解説文: H6-6-33館城跡.txt: 慶長4年(1599)、蠣崎慶広は氏を松前氏改姓するが、その彼が慶長5年1600)に築城着手し慶長11年(1606)に完成した城が福山城である。
 松前藩はこれを正式に福山館ないし福山陣屋呼称していたが、領民アイヌに対しては城と称した以後蝦夷地幕府直轄地となって松前氏梁川転封されていた一時期、すなわち文化4年から文政4年(1807~21)までの14年間を除いては、福山城松前氏代々居城であった嘉永2年(1849)幕命受けた松前崇広は翌3年に旧城を壊して福山城築城開始し安政元年(1854)に完成した。この城が今日にみる福山城であり、その遺構昭和10年指定されている。
 ただし福山城立地は必ずしも戦略上も経済上も有効なものではなく築城以来函館石狩等への移転計画されることがままあった。また安政2年(1855)東西蝦夷地の上知によって、所領狭小となったこともあり、[[厚沢部]あつさぶ]川流域天の川流域造田開発する計画があった。慶応4年18687月(以下旧暦)、この造田計画推進していた若手家臣下国東七郎が、クーデターにより執政となり、厚沢部川流域の[[館]たて]への移城が決定された。藩主徳広の同意得た上で9月明治改元)に箱館府に、11月太政官築城願が提出されている。太政官許可がおりるのは11月11日であるが幕府脱走軍の動向による軍事的緊張もあり、事実九月着工10月には完成をみ、明治元年11月3日藩主徳広は館城入城したこのため以後館藩」とよばれるうになる
 しかるに11月10日幕府脱走松岡四郎次郎隊は館城攻略のため五稜郭出陣11月15日には彼らの攻撃によって館城陥落している。この時三上起順、今井興之丞ら多数戦死している。
 城跡厚沢部川支流糠野川かこまれ標高50メートル台地上にある。その構え城郭というよりは陣屋近く南方東方一部土塁東西200メートル)とほり、また中心部井戸跡炭化米が散布する跡などの建物跡残っている。南方のほりを百間堀とよんでいるが、これが4周めぐっていることは、絵図藤枝家文書前川文書など)から知られていた。ただし昭和63年から、平成2年にかけて厚沢部町教育委員会および十勝考古学研究所によって行われた発掘調査結果東西北のほりは絵図とは若干異なってそれぞれ[[矩折]かねおり]をもっていることが確認できた。また、多く建物跡柵木基部木材等も検出されているし、多数陶磁器肥前染付など)のほか遺物出土している。
 館城南の山を丸山とよぶが、館城攻防をめぐる戦場であり、250所を数え散兵壕の跡が残り激戦であった様子伝えている。
 館藩呼称が示すように、館城松前氏最後の城である。また箱館戦争主戦場一つであったことにも重要な歴史的意義がある。さらに加えれば明治になって作られた藩の城としても特異な意義があろう。館城存在抜きにしては北海道における幕末維新期の情勢松前氏歴史語れないともいえよう
 したがってここにその歴史重要性考え、既指定福山城館城跡追加指定して両者を松前氏城跡とするとともに福山城呼称を他の城の史跡指定名称にならって福山城跡変更したい



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