松山城跡
名称: | 松山城跡 |
ふりがな: | まつやまじょうあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 愛媛県 |
市区町村: | 松山市堀之内 |
管理団体: | 松山市(昭28・8・19) |
指定年月日: | 1952.03.29(昭和27.03.29) |
指定基準: | 史2 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 加藤嘉明の縄張にかかり、嘉明は慶長七年起工、翌八年正木城からここに移ったが、工事は次の蒲生氏を経て久松氏に至りはじめて完成した。久松氏は寛永十二年移封後歴代ここにおり、その間天明の雷火によって天守閣等炎上の災もあったがよくこれを再建し、以て明治維新に至った。略々東西に長い独立丘陵に據り、その麓の低地をとり入れて営まれた城で南西を大手とし、北西を搦手とする。丘陵の略々中央から西にかけて、馬背状をなす頂上部に狹長な本丸を置き、その南西麓に広い谷状地を利して稍々高く二の丸を設け、これを大きく囲んで土塁、堀をめぐらす略々方状形の三の丸を低く置き、大手口を固める。また北西麓搦手に北郭を設け、南東麓に東郭を配して、登はん路を扼している。本丸は近時屡々火災の厄に遭ったが、なお天守閣を始めとして櫓、門、塀、石垣等見るべきものが多く、二の丸は石垣が略々完存し、三の丸も亦よく旧観をとどめている。北郭はすべて失われたが、東郭はその石垣を存している。全体を通じて改変のあとはあるが、遺構はよく保存され、郭の配置は要を得、本丸、二の丸の通路また堅固を極め特に二の丸から山腹を縫って、本丸の大手附近に達する石垣は類例稀で、近世における城郭として、価値ある遺跡である。 |
比企城館跡郡
菅谷館跡
松山城跡
杉山城跡
小倉城跡
名称: | 比企城館跡郡 菅谷館跡 松山城跡 杉山城跡 小倉城跡 |
ふりがな: | ひきじょうかんあとぐん すがややかたあと まつやまじょうあと すぎやまじょうあと おぐらじょうあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 埼玉県 |
市区町村: | 比企郡嵐山町 |
管理団体: | 埼玉県(昭51・7・26) |
指定年月日: | 1973.05.26(昭和48.05.26) |
指定基準: | 史2 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | 平成20.03.28 |
解説文: | S51-12-028[[菅谷館跡]すがややかたあと].txt: 昭和48年5月26日史跡指定した菅谷遺跡については、当時指定管理方針が確定していなかったため東側の堀跡の一部が未指定に終わったが、昭和51年12月、埼玉県が史跡用地として管理することが決定したので、追加指定する。 S48-05-130[[菅谷館]すがややかた]跡.txt: 鎌倉時代の有力御家人として著名な畠山重忠の館跡である。重忠は、父重能の代から大里郡畠山荘の荘司であり、はじめ同荘内に館を置いていたが、やがて鎌倉街道の要衝にあたる菅谷に移って館を構えたもので、元久2年(1205)重忠が死去したあとは、畠山の名跡を継いだ足利義純の子孫に伝えられた。 館跡は都幾川と槻川の合流点北側にあり、中央やや南寄りに、長方形の本丸を置き、その北側に二の丸・三の丸などを配置し、各郭を土塁・堀で防備している。郭の配置や土塁の構築法には近世的な平城の特徴がうかがえるが、本丸は単郭式の館の面影をとどめており、鎌倉時代の菅谷館の中心部分と思われる。中世館跡の遺構として数少ない遺跡であり、保存度もきわめてよい。 |
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