備中松山城跡とは? わかりやすく解説

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備中松山城跡

名称: 備中松山城跡
ふりがな びっちゅうまつやまじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 岡山県
市区町村 高梁市内山下
管理団体 高梁市(昭351014)
指定年月日 1956.11.07(昭和31.11.07)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 仁治元年秋庭氏の創築にかかると伝えられる鎌倉時代末より南北朝時代高橋氏高氏秋庭氏これに據り室町時代入って秋庭氏に代って上野氏、荘氏、三村氏居城となり、毛利氏三村氏攻めてこれを収めた関ヶ原役小堀代官として鎭したが、元和3年池田氏ここに封ぜられ、爾後水谷氏安藤氏石川氏経て延享元年板倉氏ここに入り明治維新至った
高深地方は、山陽山陰を結ぶ咽喉部に位し古来重視されたところであるが、松山城はこの地を貫流する深川左岸臨んで高く聳える山上営まれ山城である。山は臥牛山称せられ、南北長く独立状を呈していて、北端大松山中央天神丸南端小松山三峯があり、天神丸標高487メートルの高さである。
大松山天神丸とには、それぞれ平された曲輪があり、中世において恐らく小松山をも合わせて広大な城塞営まれていたことを示している。小松山は最も平野部近く、為めに近世入り、この城についてのみ改築施し近世的な築城が行われたものと思われる
南麓居館跡より急坂を登れば下太中太鼓出丸過ぎて頂上部に近い大手門達し三の丸、厩の段、御膳棚階段状に配列された諸郭を経て二の丸到る二の丸の奥に一段高本丸があり、天守閣二重櫓現存する本丸背部に後曲輪があって城の背面を守る。背面急な崖で、谷間堀切造って天神丸大松山地域と分っている。また、堀切大松山盡きところにもあって、北端守っている。門塁等すべて石垣を以て堅められ、大手三の丸より仰ぎ見石垣偉観たるを失わない
この構築経緯については、なお詳でない点もあるが、盖し近世初期に先づ営まれ、ついで水谷氏により天和年間天守閣始めとする大修築が行われたのではないか推定される
このような高い山頂部近世入って築城されていることは、地勢然らしむところとはいえ極めて稀なであって、しかも縄張地形利して巧みであり、遺構もよくのこり、城郭史上価値ある遺跡である。
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