電力不足の発生
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「中部電力 (1930-1937)」の記事における「電力不足の発生」の解説
1914年(大正3年)6月、岡崎電灯3番目の発電所として賀茂発電所が完成した。この当時は第一次世界大戦が勃発した頃で商工界があまり振るわず、電気の需要も見込みどおりではなく営業成績は良好とはいえなかったので、発電所を建設しすぎたという声もあった。ところが間もなく大戦景気が訪れると三河地方でも三河木綿をはじめ諸商工業が活況を呈するようになり、電灯・電力ともに需要が急増し始める。1914年11月末時点で電灯数2万9820灯・電力772馬力 (576 kW) であった供給成績は、1年後の1915年(大正4年)11月末にはともに1.2倍増の電灯数3万5044灯・電力949馬力 (708 kW) となった。 1914年2月、名古屋電灯巴川発電所の下流、東加茂郡足助町に巴川の水利権を得た。翌1915年より大戦景気下の需要増加に応ずるため足助発電所(出力1,565 kW)の建設に取り掛かり、水力発電所よりも短期間で完成する火力発電所建設も応急措置として並行して着手した。工事中の1918年(大正7年)8月に発電所建設資金を得るため210万円へと増資している。この時期にも供給区域が拡大されており、南は幡豆郡幡豆村(現・西尾市)にて1916年(大正5年)から翌年にかけて、北は西加茂郡猿投村(現・豊田市)にて1918年ごろより供給を始めた。幡豆村の事例では、電柱1本あたり10燭灯4灯分の加入者があれば岡崎電灯で設備工事をしたという。なお1916年10月に社長であった田中功平が死去し3人の創業者は全員死去した。社長職は12月より杉浦銀蔵(3代目)が継ぎ、以後岡崎電灯解散まで務めることになる。 岡崎市八帖町にて起工した岡崎火力発電所(出力600kW)はアメリカ・ウェスティングハウス・エレクトリックに注文していた設備が大戦の影響で延着となり、1918年11月の運転開始となった。翌1919年(大正8年)10月には足助発電所も完成している。2つの発電所新設で発電力は1,075kWから3,240kWに上昇したが、同年11月末の供給成績は電灯数7万1312灯・電力1,867馬力 (1,392 kW) という4年前に比して倍増の水準に達し、供給力不足は続く。1919年から翌1920年(大正9年)にかけてが需要増加のピークで、連日動力用電力の供給申し込みが殺到するものの供給力の制約から抽選にて需要家を決定するという状況に陥ってしまう。そのため被供給権に1馬力あたり200円前後の権利がついて需要者間で闇転売される、という現象まで発生した。 供給力不足の岡崎電灯は、競合会社として出現した後述の矢作水力から不利な条件で同社からの電力購入を契約せざるを得なくなった。受電は当初620kW、のち2,120 kWで、1921年4月より開始。この受電以外にも自社電源増強に努め、同年8月には名古屋電灯から先に買収していた小原発電所を325kWの発電所に改修した。1921年11月末時点の供給成績は電灯数12万5089灯・電力5,259馬力 (3,922 kW) に達するも、供給力不足は依然続いた。そのため電源増強の試みが継続され、天竜川に発電所を持つ天竜川水力電気(直後に東邦電力へ合併)からの受電を選択、静岡県側の宮口開閉所渡しで1921年11月より1,000kWの受電を始める。翌1922年(大正11年)春には大浜火力発電所の建設に着手するとともに、岡崎火力発電所の600kW増設を完成させた。 経営面では、1920年3月10日に碧海郡の碧海電気(詳細後述)を合併して22万円を増資した上で、同年10月に一挙に500万円への増資を決議した。次いで12月1日、副業として経営していた植林・製材・電柱製作などの事業を分離し岡崎殖産を設立。1922年には1月30日付で幡豆郡の平坂電気(詳細後述)を合併して15万円の増資を行い、さらに8月に再び535万円の増資を決議して、資本金を倍額の1050万円としている。
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