雪斎の活躍
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雪斎は義元を政治・軍事の両面で全面的に補佐した。義元も雪斎を厚く信任して手厚い庇護を与えた。天文6年(1537年)、雪斎は氏親の時代から悪化していた甲斐の武田信虎との関係改善に務め、義元の正室に信虎の長女・定恵院を迎え、信虎の嫡子・晴信に三条公頼の娘・三条の方(今川家の遠縁)を周旋して、両家の間に甲駿同盟を成立させた。だがこのため、これまで同盟関係にあった相模の北条氏綱との関係が悪化し、氏綱は駿河東部に侵攻し、同地を占領した(河東の乱)。雪斎はこれに対して拙速を避け、天文14年(1545年)に関東管領の山内上杉憲政を誘い込んで武田晴信と共同して河東に出兵し、同地を取り戻している。(河越城の戦いも参照)。 天文12年(1543年)、雪斎は臨済寺の開山として迎えた大休宗休の門人となることが許されて同じ臨済宗でもそれまでの建仁寺派から離れて妙心寺派に転じ、法名も後世に知られる太原崇孚と改める。これは、当時妙心寺派の勢力が東国を中心に急速に拡大していたことに対応しようとしたものとされる(ただし、妙心寺が五山系の諸派と対立していた訳ではないことに注意を要する)。なお、それに先立って雪斎は同じ妙心寺派の明叔慶浚を臨済寺に招いて一時的に住職の地位を譲っている。 天文15年(1546年)10月、織田信秀が西三河に侵入して松平広忠が救援を要請してきたのを機会に、雪斎は大軍を率いて西三河に介入する。天文16年(1547年)、今川軍を率いて三河田原城を攻めて、同城を落とした。天文17年(1548年)3月19日、三河小豆坂で尾張の織田信秀と戦い、織田軍を破った(第2次小豆坂の戦い)。天文18年(1549年)11月、三河安祥城を攻めて織田信広を捕縛し、織田信秀と交渉を重ねて、織田家に奪われていた人質の松平竹千代(のちの徳川家康)を今川氏のもとへと取り戻している。この時の人質交換は三河の西野笠寺で行なわれた(『徳川実紀』東照宮御実記巻一 天文十八年)。安祥城を失ったことにより織田氏の勢力は著しく減退し、今川氏は西三河の支配権を得た。 天文19年(1550年)6月に義元の正室・定恵院が死去し、今川家と武田家の婚姻関係が絶えた。このため天文21年(1552年)11月に義元の長女・嶺松院を晴信の嫡子・義信の正室として嫁がせて同盟・婚姻関係を保持した。 天文23年(1554年)3月には甲斐の武田晴信、相模の北条氏康に働きかけ、甲相駿三国同盟の締結に尽力した。この同盟に伴い、義元の嫡子・氏真に氏康の娘・早川殿が嫁ぐ。これにより、今川家は三河など西方面への作戦に兵力を集中することが可能になったこの同盟に際し、武田晴信、北条氏康、主君の今川義元の三家の当主を駿河の善得院(現・臨済寺)で会合させたとの伝説もあり、現在では面会そのものは後世の創作との説が有力である(甲相駿三国同盟#善得寺会盟)。 このように外交と軍事の活躍が目立つ雪斎であるが、天文14年(1545年)に高僧を招いて駿府に臨済寺を開寺し、自らは2世住持となり、天文19年(1550年)には京都妙心寺の第35代住持に就任するなど、僧侶としても活躍している。雪斎の時代に駿河では善徳院と清見寺を中興し、今林寺や承元寺、葉梨長慶寺、庵原一乗寺が、遠州では定光寺が、三河では太平寺が興され、妙心寺派の普及がなされている。 天文22年(1553年)、今川家の分国法である今川仮名目録33か条の追加21箇条の制定に寄与する。また臨済宗を中心とした領内における寺社・宗教の統制や、在来商人を保護する商業政策なども行ない、今川氏の最盛期に大きく貢献した。中国の史書である歴代序略を印刷している。
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