雪斎の活躍とは? わかりやすく解説

雪斎の活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/09 14:30 UTC 版)

太原雪斎」の記事における「雪斎の活躍」の解説

雪斎義元政治・軍事両面全面的に補佐した義元雪斎厚く信任して手厚い庇護与えた天文6年1537年)、雪斎氏親時代から悪化していた甲斐武田信虎との関係改善務め義元正室信虎長女定恵院迎え信虎嫡子・晴信に三条公頼の娘・三条の方今川家遠縁)を周旋して両家の間に甲駿同盟成立させた。だがこのためこれまで同盟関係にあった相模北条氏綱との関係が悪化し、氏綱は駿河東部侵攻し同地占領した河東の乱)。雪斎はこれに対して拙速避け天文14年1545年)に関東管領山内上杉憲政誘い込んで武田晴信共同して河東出兵し、同地取り戻している。(河越城の戦い参照)。 天文12年1543年)、雪斎臨済寺開山として迎えた大休宗休門人となることが許されて同じ臨済宗でもそれまで建仁寺派から離れて妙心寺派転じ法名後世知られる太原崇孚改める。これは、当時妙心寺派勢力東国中心に急速に拡大していたことに対応しようしたものとされる(ただし、妙心寺五山系の諸派対立していた訳ではないことに注意要する)。なお、それに先立って雪斎は同じ妙心寺派明叔慶浚臨済寺招いて一時的に住職地位譲っている。 天文15年1546年10月織田信秀西三河侵入して松平広忠救援要請してきたのを機会に、雪斎大軍率いて西三河介入する天文16年1547年)、今川軍率いて三河田原城を攻めて、同城を落とした天文17年1548年3月19日三河小豆坂で尾張織田信秀戦い織田軍を破った第2次小豆坂の戦い)。天文18年1549年11月三河安祥城攻めて織田信広捕縛し織田信秀交渉重ねて織田家奪われていた人質松平竹千代(のちの徳川家康)を今川氏のもとへと取り戻している。この時の人交換三河西野笠寺行なわれた(『徳川実紀東照宮実記巻一 天文十八年)。安祥城失ったことにより織田氏勢力著しく減退し今川氏西三河支配権得た天文19年1550年6月義元正室定恵院死去し今川家武田家婚姻関係絶えたこのため天文21年1552年11月義元長女嶺松院を晴信の嫡子義信正室として嫁がせて同盟婚姻関係保持した天文23年1554年3月には甲斐武田晴信相模北条氏康働きかけ甲相駿三国同盟締結尽力した。この同盟に伴い義元嫡子・氏真に氏康の娘・早川殿嫁ぐ。これにより、今川家三河など西方面への作戦兵力集中することが可能になったこの同盟際し武田晴信北条氏康主君今川義元三家当主駿河の善得院(現・臨済寺)で会合させたとの伝説もあり、現在では面会そのもの後世の創作との説が有力である(甲相駿三国同盟#善得寺会盟)。 このように外交軍事活躍が目立つ雪斎であるが、天文14年1545年)に高僧招いて駿府臨済寺を開寺し、自らは2世住持となり、天文19年1550年)には京都妙心寺の第35住持就任するなど、僧侶として活躍している。雪斎時代駿河では善徳院と清見寺中興し、今林寺や承元寺長慶寺庵原一乗寺が、遠州では定光寺が、三河では太平寺興され妙心寺派普及なされている。 天文22年1553年)、今川家分国法である今川仮名目録33か条の追加21箇条制定寄与する。また臨済宗中心とした領内における寺社宗教統制や、在来商人保護する商業政策なども行ない今川氏最盛期大きく貢献した中国史書である歴代序略を印刷している。

※この「雪斎の活躍」の解説は、「太原雪斎」の解説の一部です。
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