関脇陥落後
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1999年7月場所以来約2年ぶりに関脇の地位へ下がった2001年9月場所、10勝以上の大関特例復帰を賭けて臨んだものの、結局5勝10敗の負け越しに終わった。その後も2003年3月場所に小結、5月場所に関脇へと戻ったものの、それ以降は殆ど平幕上位での相撲が続いた。大関から転落後暫くは、蜂窩織炎により蝕まれた足が痛々しく、相撲ぶりにも粘りを欠いた。またこの頃、後援会の会員数が減るなどの悲哀も味わい、後に「人間の冷たさ、薄情さ、『手のひらを返す』ということを勉強させてもらった」と語るほどであったが、同時に引き続き応援し続けてくれる人が本当のファン、後援者であるということも改めて勉強して「大切なものを再認識できた」とも語っている。さらに、インタビューなどでしばしば「横綱・大関と取れる番付にいたい」等と、上位で相撲を取ることへの意欲を語ることが多かった。横綱・大関とも十分に渡り合えるだけの実力を長期間保ち、元大関としての矜持も持っていた。 2003年1月場所は貴乃花に勝ち優勝争いに加わり、2003年3月場所では朝青龍に勝ち2場所連続横綱に勝ったり、2003年11月場所は十両陥落の危機だったが力の違いを見せ11勝、2004年9月場所は初日から5連勝し優勝争いに加わったりするなど、具合が良い時は活躍する場所もあったが、2002年7月場所は右膝靱帯損傷と外側靱帯損傷で途中休場、2003年7月場所では右膝半月板を損傷し全休、2004年11月場所では左足ふくらはぎ肉離れで途中休場するなど、怪我が良くなったり悪くなったりを繰り返していた。2004年~2006年頃は高見盛同様、千秋楽7勝7敗で迎える事が多かった。 しかしそれが最高の形で現れたものが、2007年であった。この年は出島の活躍が目立ち、復活を印象付けた。西前頭筆頭で迎えた1月場所は序盤は出足が冴え、2日目に大関白鵬を押し出しに破り、3日目には横綱朝青龍を土俵下に叩きつけて圧勝し、大関陥落後2個目、朝青龍からは初めての金星を挙げた。しかしその後は一転、2度の5連敗を喫して4勝11敗と大きく負け越し、殊勲賞を逸した。次の3月場所も7勝8敗と負け越して、前頭2桁台に落ちた5月場所では、初日から8連勝という自己新記録を打ちたて、中日勝ち越しを決めた。結局その場所は12勝3敗の好成績で、優勝した場所以来となる実に47場所ぶりの敢闘賞を受賞した(元大関として雅山以来1年半ぶり史上6人目の三賞受賞)。11月場所では、中日に全勝であった千代大海を破るなど活躍を見せ、西前頭2枚目で10勝5敗と勝ち越し。三賞候補にも挙がったが、過半数にわずか1票足りず受賞を逃した。 2008年1月場所は、27場所ぶりに小結復帰を果たしたものの、3勝12敗と大敗。これが現役最後の三役の場所となる。その後は出足が鈍り、叩く相撲や立合いの変化が増えた。同年9月場所での勝ち越しを最後に、遂に二度と勝ち越すことはなかった。同年11月場所では、初日から6連勝するも、その後9連敗を喫し6勝9敗と負け越してしまった。2009年3月場所初日に黒海に掛け投げを喰らい左腕から落ちて肘を負傷した。休場することこそなかったものの完治することなく、結果的には相撲人生にとって致命傷となった。幕内優勝からちょうど10年が経った2009年7月場所は、下に2枚しかない状況で10日目に負け越しを喫し、厳しい状況となった。翌11日目にも豊ノ島に敗れて2勝9敗となり、十両陥落が濃厚となったため、この相撲を最後に現役引退を表明した。関脇陥落の後、大関へ再昇進することなく丸8年間48場所にわたって三役以下の幕内で相撲をとり続けた が、これは元大関としては当時史上最長記録の第1位であった。 曙と相性が良く、6勝6敗と互角であった。
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