関脇陥落後・十両の地位で引退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 10:20 UTC 版)
「大受久晃」の記事における「関脇陥落後・十両の地位で引退」の解説
関脇に陥落した翌7月場所は、10勝以上の成績を挙げれば1場所で大関特例復帰を果たせたが、12日目に前頭5枚目長谷川戦で6敗目を喫し、ここで大関再昇進が絶たれる。その後千秋楽まで3連勝したが9勝6敗と惜しくも1勝足りなかった。なお関脇陥落場所で勝ち越しながら大関復活が絶たれた力士は、1969年7月場所に「大関で2場所連続負け越しにより関脇降下、但し転落場所で10勝以上すれば大関特例復帰」の規定に改められて以降、大受が初めてであった。 1974年7月場所から同年11月場所まで、関脇の地位で3場所連続で勝ち越した。戦後、大関陥落後に3場所連続で三役を維持したのは史上2人目。11月場所14日目の北の湖戦はNHK大相撲中継の視聴率が37.1%を記録しており、これは九州場所のものとしては2017年9月場所終了時点で6位タイである(ビデオリサーチ調べ)。だが、翌1975年1月場所は4勝11敗と大敗、4場所続いた関脇から平幕の地位に下がり、以降三役への返り咲きはならなかった。その後は満身創痍の土俵が続いていたが左膝も故障し、同年9月場所で新入幕を果たした前頭12枚目千代の富士に幕内初白星を献上するなどして幕内下位でも成績を残すことが出来なくなり、1977年5月場所には大関経験者で初めて十両に陥落した。当時大受は年寄名跡を取得しておらず、かつ「年寄名跡を持っていなくても、引退後3年間は四股名のまま年寄として残れる」という現在の大関の特権もなかったため、やむなく出場することとなったが、初日から3連敗を喫し、4日目から途中休場に追い込まれ、場所後に現役を引退し偶々空き名跡になっていた年寄・楯山を襲名した。 取り口は広い肩幅を生かし徹底した押し相撲で、「まわしを取ったら三段目の実力しかない」と言われるほどだったが、当時相撲解説者の玉の海梅吉が「土の匂いのする力士」と評するほど押し一徹を貫き通した。押し相撲のみで大関になった力士の出現は大受以降となると後に貴景勝が現れるまで45年余りを要した。 なお、1973年11月場所の12日目、横綱琴櫻との一番で、お互いが頭を鉢合わせするような形でぶちかましたところ、琴櫻は脳震盪を起こして倒れてしまった(決まり手は突き落とし)。取組後、琴櫻は「あんな石頭は初めてだ」とコメントしている。頭に入れたシリコーンが凶器となった可能性があるが、当時はそのことがあまり知られていなかったらしく、特に問題とはされなかった。
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