関脇陥落〜引退とは? わかりやすく解説

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関脇陥落〜引退

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:10 UTC 版)

霧島一博」の記事における「関脇陥落〜引退」の解説

1993年1月場所はケガによる公傷適用されたため全休当初霧島前年11月場所中の右足負傷後、花道自力歩き帰った理由公傷申請却下されたが、数日後日本相撲協会の緊急理事会において霧島公傷認定された。詳細は「公傷制度」を参照)。西張出関脇再起をかけた3月場所では、10勝以上で規定により大関特例復帰だったが、結局5勝10敗の負け越し終わり大関への復活はならなかった。その後平幕地位定着するも、人気の高さは変わらなかった。大関陥落後は、幕内中位から下位番付では出し投げ中心とした技能相撲で勝ち越すことも出来たが、幕内上位上がる大負けするという状態が続いた勝ち越した場所も8勝7敗で終わることが多かったため、番付の上がりは遅く、常に十両落ち危機隣合わせだった。 なお奇しくも小錦(現タレント)も、霧島同様に1993年11月場所限り大関から関脇転落その後1994年平成6年3月場所以降平幕低迷していた。1994年5月場所3日目東前頭5目・小錦西前11目・霧島戦と、元大関同士平幕での取組大きな話題呼んだが、大関陥落者の二人前頭地位対決するのは、1959年昭和34年3月場所大内山対三根山以来35年ぶりの珍事だった。小錦後年霧島友人戦友だと話しており、引退した後も大の仲良し語っている。ちなみに小錦との幕内取組成績は、38対戦して1919敗と全くの互角であった。 また大関時代は130kg以上あった体重も、陥落後半年が経つ頃には120kg台前半まで落ちるなど体力衰え目立った幕尻近い西前14目で迎えた1996年平成8年3月場所は3勝12敗で終わり翌場所は十両陥落となることから、この場所限り引退引退会見では「気力なくなり引退決意しました悔いはまだないとは言えないですが、今日負けた時点でもうはっきりこれで終わりだと自分納得しました。」と落ち着いていた。引退後は同部屋弟弟子である寺尾が持つ年寄錣山借りて襲名した

※この「関脇陥落〜引退」の解説は、「霧島一博」の解説の一部です。
「関脇陥落〜引退」を含む「霧島一博」の記事については、「霧島一博」の概要を参照ください。

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