開発と普及
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電磁直通ブレーキは、開発国であるアメリカにおいては従来のAMM(AMME)・AMU(AMUE)ブレーキ等と置き換わる形で1920年代後半よりWABCO製自動空気ブレーキや非常直通ブレーキを導入していたインタアーバン各社や地下鉄・高架鉄道で普及が徐々に始まった。 しかし、そのデビュー時期がモータリゼーションの進行や太平洋戦争の開戦と重なったため、完全に在来方式のブレーキを置き換えるには至らなかった。これには、車両数で最大手の一つであったニューヨーク市地下鉄がAMUブレーキの性能に満足していてその採用を渋り、1948年のR10でSMEEブレーキを正式採用するまで、1930年代後半には試作車への搭載は行っていたとはいうものの、10年以上態度を保留していたことも少なからず影響を及ぼしていた。 その一方で、1930年代中盤にWH社の手により、ブレーキ弁と主幹制御器を縦軸のまま一体化する、シネストン・コントローラ(Cineston Controller)と呼ばれる、現在のワンハンドルマスコンの先駆けとなる画期的なシステムが開発され、PCCカーなどへの導入が開始された。これに組み込まれたブレーキシステムはSMEE系ではあるが改良が施され、機構上電空同期を完全なものとする必要があったことから、前述の締切電磁弁や射込弁が採用されている。 これに前後して、当時流行の軽量高速気動車列車で確実な制動を実現するためにHSCが開発されており、WABCOによる電磁直通ブレーキ開発はこの時期に一つのピークを迎えたことになる。
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開発と普及
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宝暦年間(1751年~1763年)、五十沢(いさざわ)の七右衛門がどこからか蜂屋柿を五十沢に持ち込んだのが、五十沢の柿栽培の始まりと伝えられている。そのため、江戸時代の五十沢では蜂屋柿を「七右衛門柿」と呼んだ。蜂屋柿の皮を剥いて連(れん:柿を干すための縄)に下げて天日で乾燥した干し柿を、江戸時代には天干し柿(あまぼしがき)と呼んでいたため、これが「あんぽ柿」という名称の由来と推察されている。当初は一般的な干し柿と同じように黒ずんだ色で、これは現在のあんぽ柿と区別して「黒あんぽ」と呼ぶ。 なお、五十沢は柿の栽培と干し柿作りに特に適した気候で、五十沢で栽培すると他の地方よりも遙かに甘みが増すことが大正末期の品評会の記録に残る。福島盆地の北端の南斜面に位置するために日照量が多い、内陸性盆地型気候で寒暖差が激しい、西日本のように台風の被害を受けることが少ない、土質などの複合要因が、五十沢が柿栽培に適している原因と考えられる。 大正年間の中頃、五十沢村の隣村である大枝村出身の佐藤福蔵が米国カリフォルニア州に行ったときに、干しぶどうの乾燥に硫黄燻蒸を行っていることを知り 、これを兄の佐藤京蔵に伝えた。京蔵は干しぶどうの硫黄燻蒸をあんぽ柿に応用すべく研究を進めたが完成せず、その後、五十沢の鈴木清吉、曳地長平、岡崎幸三郎、飯沼庄三郎、曳地宗三郎、佐藤太郎右衛門、宍戸与惣次、岡崎文太郎、岡崎広七、小野良蔵らが中心となって黒あんぽの改良研究を進め、試行錯誤の末に1922年(大正11年)に現在の硫黄燻蒸あんぽ柿の原型が完成した。翌1923年(大正12年)11月3日にあんぽ柿出荷組合を創立し、あんぽ柿の出荷を始めた。 1929年(昭和4年)に五十沢小学校農業教師として赴任した佐藤昌一(まさいち)の指導もあり、五十沢全域に広がった。あんぽ柿出荷組合は当初五十沢農協に引き継がれたが、その後の農協合併によって、梁川農協、伊達みらい農協へと引き継がれたため、その過程で「五十沢のあんぽ柿」という登録商標は失われた。 昭和40年代に五十沢が全国の農業団体の視察を受け入れたため製法が全国に伝わり、現在では全国各地の主に山間部で作られている。
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