開発と戦歴とは? わかりやすく解説

開発と戦歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/05 13:36 UTC 版)

フォードFT-B」の記事における「開発と戦歴」の解説

1919年ポーランド・ソビエト戦争勃発後、ポーランド軍装備不足の問題さらされていた。特に装甲車両不足しており、フランスで編成されいわゆる青軍」は多数ルノー FT-17 軽戦車持っていたものの、その他の部隊には自前装甲車両がなく、かろうじて持っていたオースチン・プチロフ装甲車などの赤軍からの鹵獲車両も、1920年入ってからの赤軍大攻勢時にほとんど失われてしまった。 そこで、軍需省設立したCWS社(Centralne Warsztaty Samochodowe、中央自動車製作所)で働くフランス帰り技術者著名な発明家でもあったタデウシュ・タンスキ発案により、急遽開発されたのが、この装甲車である。ベースとなったのは、当時最もポピュラー乗用車であったフォードT型で、これはCWS組立行われていた。装甲車にあたって車台サスペンション大幅に強化され燃料タンク位置変更された。クランク車内から始動するために延長され計器板も変更された。装甲板は、もともと、大戦中にドイツ軍塹壕防弾板として使用した鋼板から切り出したもので、これが車台ボルト止めされた。武装機銃が 1 丁で、回転砲塔搭載された。 原型2週間掛けずワルシャワの「ゲルラフ&プルスト製作所」で製作され一連の試験経て生産移された。最初の 2 両のFT-Bは、1920年6月初めに前線送られた。その後車両完成次第前線送られていった全部16両か17両の同車生産された。フォードFT-Bは、ポーランド・ソビエト戦争終盤登場し、ヴクラ(Wkra)川の戦いワルシャワ周辺攻防ウクライナコヴェル戦いなど、さまざまな戦闘使用された。フォードT型車台使ったおかげで高速度機動性整備修理しやすさなどの利点持ち装甲重くなったとはいえ小型軽量のため、他の重い装甲車比べて不整地や簡易な走行可能だったフォードFT-Bそれまで装甲車例えオースチン・プチロフ装甲車比べれば半分程度大きさしかなく、前面投影面積小さい分、被弾率も低かったとはいえ車内あまりに狭く操縦手深く屈み込む姿勢強いられたまた、長距離行軍中にはしばしばエンジンオーバーヒートしたし、補強されとはいえサスペンションスプリング過負荷状態だった。しかし、装甲車は緊急かつ切実に必要とされており、利点欠点補った。なお、何両かのFT-Bは、「オサOsaスズメバチ)」「ムハMuchaハエ)」「ボンク(Bąk、アブ)」「コマル(Komar、ブユ)」などの固有名装甲板記されていた。 1921年、タンスキは改良型30両の製作を提案したが、戦争の終結により計画放棄された。12両のFT-B戦争生き残り最後車両1931年退役した

※この「開発と戦歴」の解説は、「フォードFT-B」の解説の一部です。
「開発と戦歴」を含む「フォードFT-B」の記事については、「フォードFT-B」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「開発と戦歴」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「開発と戦歴」の関連用語

開発と戦歴のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



開発と戦歴のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、WikipediaのフォードFT-B (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS