負荷追従運転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 14:50 UTC 版)
「東京電力の原子力発電」の記事における「負荷追従運転」の解説
東京電力においても負荷追従運転の考え方自体は1972年当時には将来的には実施可能であるべき目標として提示されていたが、当時は系統容量に占める原子力発電の割合が低位であり、(第一次オイルショック前でもあって)原油価格も極めて安価であった。そのため同時期に建設されつつあった大容量揚水発電所との組み合わせでベースロードとして使用するのが最も効率的とされていた。実際、1972年8月22日に開催された労使間の経営協議会にて経営側は「環境・資源問題に対処する電力資源活用の推進」とする総合的な施策を提案し、組合もこれを了承しているが、そこでは需給運用対策と原子力電源の運用について次のようなロジックが語られている。つまり、火力発電は大気汚染源であるので汚染物質の含有量が少ない「貴重な良質燃料の有効活用」がその軽減には必要であるがそういった良質燃料は高価で生産量が少ないことが難点であった。そのため「原子力についても高利用率運転を行ない、これにより火力特に湾内火力の発電量を軽減し、公害防除と良質燃料の有効活用をはかる」とされた。 それでも1971年3月の福島第一原子力発電所1号機運転開始の際の組織改正にて、現場のバックアップを目的に設けられた原子力部原子力発電課は、負荷追従に際して関係する下記の3装置 AFC(自動周波数調整) DPI(運転規準出力指令表示装置) DPC(運転規準出力指令制御装置) について、当時の火力発電所に倣って当面考慮するべき給電指令上の技術目標として提示している。 福島第一原子力発電所の6機のプラントが完成し、東京電力の系統容量に占める原子力発電の割合(同社に売電していた日本原子力発電の設備を含む)が増加した1979年になると、当時の東京電力原子力開発本部長、豊田正敏は夜間や休日に出力を下げる形で負荷追従運転、AFC(自動周波数制御)運転について「昭和60年代前半」(1980年代後半)には必要でとなってくる旨を述べており、当面は福島第一原子力発電所1、3号機を対象に実証試験を実施する計画を立てていた。 BWRの負荷追従は制御棒調整を用いず再循環流量制御のみを実施した場合でも100〜65%程度までの出力調整が可能である。そして出力調整の操作はタービン制御装置の負荷設定器か再循環流量制御器の設定を変更することで実施されるが、1970年代の日本では運転員が手動で変更する以外の選択肢が無かった。運転員の負荷を軽減するため、福島第一原子力発電所の3、5号機に出力調整装置が設置され、計算機シミュレーションで解析を行いつつ、実証実験は段階的な実施となった。負荷追従運転は系統の電力需要に応じ幾つかに分類できるが、同発電所で実験されたのは「日負荷追従運転」である。実績としては5号機の場合、95⇔75%出力、14-1-8-1hパターン運転を実施し、負荷追従を考慮した改良燃料を使用しない条件での実験であったが、簡便で迅速、安定な制御を確認した。 1985年には負荷追従運転の実施時期について言及し、新型燃料の実証試験を睨みながら、電源設備に占める原子力比率が27%に高まる1994年頃からは必要になるとしていた。なお、1980年代中盤は冬期の電力需要に占める原子力負荷の割合が漸増しており、1986年1月2日の例では全国平均で65.5%のところ、東京電力では88%となっていた。こうした「原主火従」の到来を背景に、東京電力は需要の低下する夜間などに負荷追従を企図し、ジルコニウムライナーを採用した新燃料を重電各社と開発、試験を1986年度後半から福島第一原子力発電所4号機、福島第二原子力発電所1号機で実施する構えだった。 しかし、その後、東京電力の原子力発電所において試験目的以外での負荷追従運転が実施されたことは無い。
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