要所・難所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/17 01:21 UTC 版)
三大急流と呼ばれる富士川と連なる山地の間を通っていたことから、鰍沢河岸から南にかけていくつもの要所・難所が存在した。江戸時代の歌人である黒川春村は駿州往還の険しさを語っており、特に甲斐国から駿河国へ下る場合は富士川水運もあるのでわざわざ街道を使う者はいないとまで記している。 砥坂(とさか) 鰍沢河岸の南にある箱原から西島宿の間にある断崖絶壁の峠。駿州往還が整備された当初はここを通す技術がまだ未発達であったことから、箱原から「砥坂の渡し」(とさかのわたし)と呼ばれる渡し船で一度東岸へ渡り、そこから岩間宿まで東側のルートをとり、岩間宿からは「岩崎の渡し」(やさきのわたし)と呼ばれる渡し船で西岸へ戻るルートをとっていた。2つの渡しを合わせて「両越の渡し」(もろこしのわたし)と呼ばれることもある。しかし両越の渡しも富士川が増水した場合は使用できなかったため、しばらくして砥坂の断崖を切り開き、桟橋を設置した「新道切通」(しんみちきりとおし)が造られるようになる。これにより渡河せずに往来できるようになるが、道幅が非常に狭く通行は徒歩のみに限られていた(馬での通行や幕府の巡回は今まで通り両越の渡しを利用している)。新道切通は明治以降拡幅され、現在は大型車も通行することが可能であるが、土砂崩れに備えて箱原第一洞門から箱原第七洞門まで洞門が7つも設置されていることなどその険しさは今でも体感することができる。砥坂の渡しがあった場所は現在鹿島橋、岩崎の渡しがあった場所は峡南橋が架けられている。 日下り道(ひさがりみち) 切石から八日市場の間にある峠。砥坂同様断崖絶壁の難所であり、断崖を切り開いて造られたものの道幅は2.7m程度と非常に狭かった。また大雨が降ると崖崩れが頻繁に起き、特に安政江戸地震の時は大規模な土砂崩れにより復旧に困難を極めていた。そのため切石と八日市場の間は1.2kmと1里もないが天候次第で足止めをよく受けていたことからこの両側に宿場が整備されていた。現在では自動車で2分程度で通過できるが切石洞門が設置されており、また道幅はあまり広くなく大型車による交通事故が多発する地帯となっている。 早川の横渡し(はやかわのよこわたし) 飯富宿と下山宿の間に富士川の支流である早川が流れている。この早川は「甲州一のあばれ川」と呼ばれるほど水流が早く、ここを渡し船で渡河することは非常に苦労していた。一方、秋冬にかけては水量が減ることからこの間だけ木橋が架けられ、両岸の村で維持管理を行なっていた。ここも日下り道同様足止めをよく受けることから元々城下町的役割を担っていた下山だけでなく飯富にも宿場が整備されている。昭和になり早川の横渡しの場所に早川橋が架けられ、戦後下流側にバイパス的役割で新早川橋も架けられたことでこの難所は過去のものになりつつある。 西行峠(さいぎょうとうげ) 南部宿と万沢宿の間にある峠。名前の由来は平安時代の歌人である西行がこの峠を越えたという伝承のほか、渡り職人が定宿した集落を指す俗語に由来するとする説がある。西行は武門の出自で、保延6年(1140年)に出家し奥州などを旅し、各地で和歌を詠んでいる。西行が甲斐を訪れた確実な記録は見られないが、当地のほか身延を訪れたとする伝承も存在する。西行に関する伝承はふたりあり、ひとつは『新古今和歌集』に入集した「風になびく富士の煙の空に消えて行方も知れぬ我が思ひかな」の歌が西行峠で詠まれたとするもので、江戸時代後期に『甲斐国志』で紹介された。もうひとつは西行がこの地を訪問した際に地元の民と歌の問答を行い、地元の民が詠んだ歌の意味がわからず、逃げ去ったとする伝承で、大正期には山中共古『甲斐の落葉』で紹介されている。同様の伝承は日本各地に存在する。 勾配が厳しく、穴山信君による発給文書には日が落ちた場合この峠を越えず手前の南部宿で一夜を過ごすよう記されている。現在は川沿いの断崖を切り開いて道路が設置されたが、西行洞門が設置され雨量規制による通行止がかかる場所でもある。なお、大正時代に大町桂月がここを訪れた際この峠の頂上から天子山地の間から見える富士山の素晴らしさを桂月全集に残し、御坂峠や北杜市にある花水坂と並び「甲州富士見三景」と称されている。 長峰三里(ながみねさんり) 万沢宿から宍原宿の間にある甲斐国と駿河国の国境の峠。全長は2里(8km)であるが高低差が激しく3里に相当することからこの名前がつけられている。戦国時代はまだ未整備で武田信玄による駿河侵攻の時はこのルートを避けて内房と薩埵峠を経由し、駿河平定後も穴山信君による伝馬は興津ルートではなく内房宿を通る岩淵または由比ルートとなっているのもこの長峰三里があったからである。現在国道52号は長峰三里を避けるルートとなっているが、長峰三里も山道として徒歩による通行は可能である。
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