芸術としての映画
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イギリスの映画学者 Paul Rotha は1930年の The Film Till Now の中で「音声がスクリーン上の映像と同期した映画は、映画本来の目的とはかけ離れたものである。それは映画本来の用途を退行させ破壊する誤った試みであり、真の映画に含めることはできない」と宣言した。このような意見は映画を芸術形態の1つと見ていた当時の人々としては珍しいものではない。ヨーロッパでトーキーを製作して成功を収めていたアルフレッド・ヒッチコックも「無声映画は映画の最も純粋な形態だ」とし、初期のトーキーの多くが「人々が会話する様子を写した写真」とほとんど違わないと断言して憚らなかった。ドイツでは舞台や映画の監督であるマックス・ラインハルトがトーキーについて「舞台演劇をスクリーンに持ってきたもので(中略)独自の芸術形態だった映画を演劇の下位の分野に貶めるもので(中略)絵画の複製のようなものである」と語っている。 映画史家や映画ファンの多くは(当時も後世も)、1920年代後半に無声映画が芸術として最高潮に達し、その後のトーキーは芸術性という面ではそれに遥かに及ばなかったという。例えば、映画は時代と共に忘れ去られるものだが、Time Out 誌が1995年に行った100周年を記念した映画の人気投票トップ100には、無声映画が11本も入っていた。トーキーが盛んになったのは1929年からだが、1929年から1933年までの映画で上記のトップ100に入った映画は全て無声映画(1929年の『パンドラの箱』、1930年の『大地』、1931年の『街の灯』)だった(『街の灯』は音楽と効果音のサウンドトラック付きだが、台詞がないため一般に無声映画に分類されている)。この人気投票で最初にランクインしているトーキーは、ジャン・ヴィゴ監督のフランス映画 『アタラント号』(1934年)である。ハリウッド映画のトーキーでは、ハワード・ホークス監督の1938年の『赤ちゃん教育』が最初である。 一般的にも大きく賞賛された最初の長編トーキーとしては、1930年4月1日に公開された『嘆きの天使』がある。この映画はジョセフ・フォン・スタンバーグが監督したもので、ベルリンのUFAスタジオが英語版とドイツ語版を製作した。アメリカ映画で最初に広く賞賛されたトーキーはルイス・マイルストン監督の『西部戦線異状なし』で、同年4月21日に公開された。他に国際的に賞賛されたトーキーとしては、ゲオルク・ヴィルヘルム・パープスト監督の Westfront 1918 がある。歴史家 Anton Kaes はこれを「新たな迫真性」の一例だとし、「無声映画の催眠的な惹きつけ方の強調や光と影の象徴性、さらには寓意的人物像を好む時代錯誤性」によるものとした。文化史研究家らは、1930年末に公開されたルイス・ブニュエル監督のフランス映画『黄金時代』を当時最高の芸術映画だとしている。当時、その性的で不敬で反ブルジョワ的な内容が一種のスキャンダルを巻き起こした。パリ警察はこれをすぐに上映禁止とし、50年間上映できなかった。初期のトーキーで今では多くの映画史家から傑作と呼ばれている作品が、1931年5月11日に公開されたフリッツ・ラング監督の『M』である。ロジャー・エバートは「多くの初期のトーキーが常に台詞を入れようとしていたのに対して、ラングはカメラを通りや安酒場でうろつかせ、ネズミの視点を表現した」と評している。
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