臨調答申と民営化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:28 UTC 版)
「国鉄分割民営化」も参照 1978年(昭和53年)、運賃法定制の緩和で国会審議を経ずに運賃改定が可能になると、大蔵省の圧力で運賃を毎年値上げせざるを得なくなり、利用客減に拍車がかかった。1980年(昭和55年)11月には、5年間で経営基盤を確立するなどとした日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(日本国有鉄道再建法)が成立した。この法律により、日本鉄道建設公団による地方路線建設の凍結(一部を除く)、輸送密度に応じた幹線・地方交通線の区分とそれに基づく複数運賃制度の導入(実際の導入は1984年〈昭和59年〉から)、特に輸送密度の低い特定地方交通線の国鉄からの経営分離(民間バス事業者または外部の鉄道事業者への移管。実際の廃止・分離は1983年〈昭和58年〉から)が盛り込まれた。 しかし1981年(昭和56年)から1982年(昭和57年)にかけて、政府の第二次臨時行政調査会(臨調)で進む国鉄問題審議に歩調を合わせ、かねてから国民から大きな反発を受けていたストライキの連発に重ねて、ヤミ手当やヤミ超勤、職場での飲酒行為など現場の悪慣行が次々とマスメディアにスクープされ、国鉄全体が世論から集中砲火を浴びた。 臨調は1982年(昭和57年)7月の基本答申で、5年以内に本州4ブロック程度と北海道、四国、九州に国鉄を分割して民間会社に移行すべきとの方針を示した。政府は「国鉄緊急事態宣言」を出して新規採用の原則停止、職員数削減などを推進。1983年(昭和58年)には国鉄再建監理委員会が発足して民営化に向けた作業が始まった。国鉄側は1985年(昭和60年)1月10日、「非分割民営化」を盛り込んだ独自の再建案を監理委員会に提出したが支持を得られず、仁杉巌総裁は解任された。 後任の杉浦喬也総裁は、常務理事ら幹部を大幅に入れ替えて6分割民営化を基本とする答申を提出し、各地に「地区経営改革実施準備室」を設置して民営化に向けた作業を開始した。1986年(昭和61年)には国労とともに分割民営化に反対していた動労が、同年の衆参同時選挙で自民党が圧勝し、分割民営化が事実上確定したことから「協力して組合員の雇用を守る」と容認に転換。1986年(昭和61年)11月に国鉄分割民営化関連法案が成立し、1987年(昭和62年)4月1日にJRグループが発足(→国鉄分割民営化)した。 国鉄の経営状況は、単年度の営業収支では旅客部門に限って1984(昭和59)年度に黒字化した。そして、国鉄最終年度である1986(昭和61)年度の旅客部門の単年度の営業収支は3,663億円の営業利益を計上したが、貨物部門は依然として大幅な赤字を計上していた。また、累積債務は37兆円を超え、長期債務の支払い利子だけで年1兆円を超えるなど、営業外費用が営業利益を上回って増大する状況が続いた。これについては国は抜本的な対策を講じないまま、長期債務の大部分を日本国有鉄道清算事業団(国鉄清算事業団)に切り離す形で問題解決を「先送り」にした結果、のちの債務償還計画破綻につながった。
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