自らの組を結成
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1949年(昭和24年)、山崎屋一家総長・石井秀次郎が引退すると跡目を継承し五代目総長になると同時に稲川組を結成。横浜の愚連隊だった出口辰夫(通称・モロッコの辰)、井上喜人、吉水金吾、林喜一郎(後の錦政会理事長、稲川一家会長代行、稲川会会長補佐)を若衆とし(彼らは四天王と呼ばれた)、一気に勢力を拡大した。その後、稲川組を主体として、東海道地方の鶴岡政治郎系の一家を集め、鶴岡政治郎に因み「鶴政会」を結成。 1963年(昭和38年)には政治結社・錦政会を結成。しかし、第一次頂上作戦の影響によって2年後には解散することとなった。 1965年(昭和40年)、稲川組を稲川一家に改称。 1972年(昭和47年)、組織名を稲川会に改めた。これを記念して稲川同士会の唄と現在の稲穂の代紋が製作された。 1985年(昭和60年)、稲川会会長を横須賀一家五代目総長・石井隆匡(進)に譲り、自身は稲川会総裁に就任した。その前年には、四代目山口組組長・竹中正久の後見人を務めている。 1989年(昭和64年/平成元年)には五代目山口組組長・渡辺芳則の後見人を務めた。
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