考証・評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 05:31 UTC 版)
文政11年(1828年)の『新編武蔵風土記稿』は、「風間」の名が記された後北条氏の発給文書2点を収載し、うち1点に「文中に風間といへるは、小田原北条氏にかかへおける乱波なり、乱波とは忍びの者のことにて、あるひは透波とも云、風間はその首領にて、諸国を廻り軍事をたすけしものなり」と編注を付している。 嘉永3年(1850年)刊の『武江年表』の天正18年(1590年)の記事に「天正の頃関東に乱波風間といへる強盗あり、党を結び陣中へも忍び入て盗をなす諸人恐れけるが今年より何れへか逃退て其噂絶たり〔北条五代記に出〕」とあるが、『武江年表補正略』を著した喜多村信節は、「乱破」は徒党の名称、「風魔」はその中の一人の名前だと補説している。 万延元年(1860年)頃完成した和学講談所の『武家名目抄』において、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」にみえる乱波は、常に「忍(しのび)」を役する一種の「賎人」で、野武士・強盗などの中から扶持され、戦国大名は間者・かまり・夜討などに使うために彼等を養い置いた、と解釈されている。 1926年に花見朔巳は、もともと身分が低く、情勢次第で主君を替える傭兵・野武士のような雑兵で、軽装で防備が手薄な敵方の陣所に物盗りに入り、火付けをするなどしていた「足軽」が時代が下るにつれ部隊化されたものが「らっぱ」ではないかとし、『北条五代記』の中では不分明な、斥候や偵察をする「忍びの者」とはやや異質な存在だったのではないかと指摘した。 1928年に三田村鳶魚は、『北条五代記』の風魔(、『鎌倉管領九代記』の風間小太郎)と『見聞集』の「風魔の一類らっぱの子孫共」を同じ「風摩の一類」だ、と解釈して、「らっぱ」すなわち怪しげな能力を持った「忍びの上手」の「風摩の一類」が、後北条氏の滅亡で食禄を失い、江戸に上って盗賊(泥坊)になったと主張した。 1928年に折口信夫は、三田村の「盗賊」的な見方を発展させ、らっぱを「サンカ」(山岳地帯に住む特殊な民族)が里に下りて街道筋を流浪するようになった存在だと主張した。 2004年に下沢敦は、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」の条に、乱波の言い換えである「二百人の悪盗」について『節用集』に「悪盗」が「悪党」の言い換えとされていることや、作中の「山賊・海賊・夜討・強盗」の列挙が『御成敗式目』第3条の罪科の列挙と共通していることから、乱波を悪党(極悪で凶悪な盗人の集団)と解釈し、戦国大名家が傭兵として悪党集団を召し抱え、足軽部隊を先導させるなどして、現代の斥候のような索敵・偵察任務や、夜討ちに代表される夜間奇襲攻撃のような特殊任務に使役した、と解釈した。 また下沢は、『北条五代記』「関東の乱波智路の事」の後半の「立すぐり・居すぐり」の逸話が『太平記』巻第34「平石の城軍の事付けたり和田夜討の事」の記事にみえることを指摘し、同話が三浦浄心による再話の可能性を指摘しつつも、身分の低い、社会の最底辺にあるような人々が悪党集団を構成し、中世の古風な悪党の智略をそのまま踏襲していた、と解釈している。 2006年の下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』は、「風間」の名が見える後北条氏の発給文書5点と黒谷村の妙円寺開基・雨宮主水正の先祖・風間出羽守の伝を紹介した上で、「風間」を「ふうま」と読み、「風間」と「風間出羽守」を「北条氏に仕えた忍者の棟梁」と解釈している。 2013年に黒田基樹は、下山『後北条氏家臣団人名辞典』に挙げられている史料のうち、黒谷村の妙円寺開基・雨宮主水正の先祖・風間出羽守の伝を除く5点と、別人と目される「風間」の人名が見える後北条氏の発給文書1点の存在を指摘し、風間は史料中で、軍事最前線に配備され、軍事活動を担う存在とされている、とし、推定天正9年以降の北条氏政の十郎あて書状で風間が敵の夜懸への警戒にあたっていることもあわせて、特殊な軍事活動を多く行う存在であったことが伺われ、それが江戸時代に「忍者風魔小太郎」を生み出した、と推測している。 2020年に平山優は、「風魔の実像を検討した唯一の研究」 として黒田の論考を挙げ、他の先行研究の存在を否定した上で、実在した風間は、「嗅ぎ」などの忍びの任務をこなし、後北条氏にとって重要な戦場の最前線に派遣、配置されており、かなりの規模の軍勢を率いていたが、その軍勢は素行が悪く、味方の村々からも悪評紛々であった、として、『北条五代記』などが「明記」する「風魔一党は悪党出身のアウトロー集団であった」という記述とほぼ一致する、と解釈している。
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