考証学の実証性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 22:53 UTC 版)
考証学は、文献研究の方法として客観的な資料に基づく判断を尊重する合理性に根ざし、実証主義的であるとされる。考証学は文字・音韻・訓詁を主体とした言語学的な方法論の整備を追求し、言語というものは間主観的に理解することのできる媒体であるために、学問としての実証性を内に備えることが出来た。 これらを踏まえた上で、銭大昕は経書解釈の基礎として実証主義とは相容れないはずの、儒学に対する形而上的認識を考証を合理的に行うための前提的な枠組みとしてあらかじめ組み込んでいた。例えば、我々の近代科学と認識するものの根底には、形而上学を排斥する実証主義が存在するが、その大前提となるものはニュートンによって与えられた、客観世界を時間的質量的に均質な普遍的存在とする科学的な「信仰」であった。実証主義にとっては、本来対象に対する認識がいかにして可能となるか、加えて認識の可能となる条件はいかにして整えられるかが問題とされ、そうした上ではじめて客観世界が時間的質量的に均質であることが証明されるべきであったが、その本質的な証明がないままにニュートン以後は、それが自然科学的世界観として絶対化された。 ここで重要なことは、ニュートンによって与えられた客観世界が時間的質量的に均質であるという形而上的認識が支配したからこそ近代科学が成立し、今日に至る科学の展開を支える基礎が与えられたという構図となっている点である。要は実証主義の背後には形而上的認識が存在し、この形而上的認識を背景に据えていたからこそ対象への積極的なアプローチが可能となっていた。つまり、考証学の実証性に対する、儒学としての形而上学的なものの存在を無視した評価は、考証学本来のすがたを正しく言い当てるものにはならず、儒学としての考証学がその客観的な経書解釈の方法論として訓詁・音韻の学を包摂することと、形而上学的な道の承認との間に矛盾はないとされる。まさに形而上的な道の認識が、儒学としての考証学の訓詁・音韻に依拠する実証性を基礎付けていた。 銭大昕における考証学の実証性といわれるものは、言語という客観的・合理的ないわば啓蒙主義の申し子のような手段による方法論の整備と客観的な論理の組み立てに存していた。しかし逆説的であるが、それは形而上的な儒学の道の認識が基にあり、それに支えられていたとされる。
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