経営多角化の失敗とコダック傘下入り
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「チノン」の記事における「経営多角化の失敗とコダック傘下入り」の解説
1980年代、ビデオの普及とともに、長年販売の主軸だった8mmシネカメラ分野が衰退した。スチルカメラについても後発組であることが影響して国内市場の販路確保が難しい状況が続いたため、積極的な経営の多角化を行った。ビデオカメラ用レンズの製造のほか、折からのコンピュータ関連市場の拡大に合わせてフロッピーディスクドライブ 、CD-ROMドライブなどの電子部品、プリンターなどの周辺機器、ファクシミリなどの事務機器を生産し、総合電子機器メーカーへの脱皮を図った。もっとも周辺機器については、自前の販路を持たないことから、一部のプリンターなどを除いてOEMを主体とせざるを得ず、低収益体質を脱することができなかった。 1991年(平成3年)3月期決算では売上高が過去最高の554億円に達しながらも財テク失敗で無配になるなど波乱含みの経営が続いた上、バブル崩壊による景気低迷が追い打ちをかけて1992年(平成4年)に国内のカメラ製造事業を取りやめた。1993年(平成5年)からはチノンブランドおよびコダックOEMのコンパクトデジタルカメラの生産を開始。しかし同年6月に150人の希望退職を募集して茅野社長は退任し、1994年(平成6年)3月には電子機器を製造していた伊那工場と子会社チノン電子を閉鎖した。1996年(平成8年)3月期決算では累積損失が84億円に達して初めて債務超過となり、上場廃止の危機に陥った。 このため、赤字が続いていたコンピューター周辺機器事業から完全撤退し、「チノンアメリカ」など海外子会社4法人の解散に踏み切って同年下期を黒字に回復。さらに1985年(昭和60年)から資本参加し筆頭株主だった米イーストマン・コダック社の支援を仰ぐ形で経営再建する方針を固めた。しかしコダック側は全従業員の3割に留まるデジタルカメラの完成品部門に限り支援する考えを示したため、チノン側はコダックが支援しない部品製造部門について分社独立させ、関係従業員の雇用継続を図った上で支援を受けることを決めた。 1997年(平成9年)4月に第三者割当増資でコダックグループの資本比率を50.1%としてグループ傘下に入ったあと、同年9月に部品製造部門と諏訪第一工場・諏訪第二工場(諏訪市中洲)や辰野工場(上伊那郡辰野町伊那富)などの施設を新設の部品製造専門会社「チノンテック株式会社」に譲渡した。分社にあたりコダック側は、部品製造部門のうち、レンズ製造・加工分野に限ってチノン本体に残すよう要求したが、チノン側は新会社の経営安定化には欠かせないとして交渉し、新会社のコダック側への協力を確約する形で分社独立を果たした。 チノンはその後、コダックの日本におけるデジタルカメラ開発製造拠点としてコダックDC290ズームやコダック EasyShare Systemなどを開発。2002年(平成14年)にはデジタルカメラ累計生産台数が500万台を突破したが、一方で早期希望退職の募集を行うなど、2000年(平成12年)以降競争が激化したデジタルカメラ市場での生き残りを図った。 2004年(平成16年)にはコダックグループのデジタルカメラ事業再編の一環として、産業活力再生特別措置法による国の事業再構築計画認定に基づく株式の公開買い付けに応じる形で、コダック子会社のコダックジャパン・デジタルプロダクトディベロップメント株式会社の100%子会社となり、同年6月に同社と合併。コダック株式会社の横浜研究・開発センター(横浜市都筑区、現フレクトロニクス・デジタル・デザイン横浜事業所)を譲り受けた上で、翌7月に社名を「株式会社コダック・デジタル・プロダクト・センター」に改称した。
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