筏式の普及
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 14:43 UTC 版)
終戦により海面の使用制限が解除され筏養殖が行われるようになったが、当初は波浪の小さい沿岸部に限られていた。県水産試験場は耐波対策として孟宗竹に着目し、1953年・54年(昭和28年・29年)の2年間で竹製筏技術を構築し、当時他県で使われていた筏よりもより大きな規模のものを開発した。昭和29年台風第12号・昭和30年台風第22号で耐波性が立証されたことにより、急速に筏養殖が広まった。 一方で筏養殖が広まったネガティブな理由として、沿岸部の埋め立てと工業化による干潟の消滅と水域環境の悪化が挙げられる。広島湾北側は戦前の1940年から工業港として埋め立てが始まり、戦後しばらく続いた。例えば、広島湾北東側の海田湾周辺は1950年代から埋立が始まり、広島湾北西側の草津は1970年代に埋め立てられた。これによって干潟が失われ、古くからのカキ養殖場が大幅に失われてしまった。なおカキと同時に行われていたノリ養殖では衰退は止まらず、県東部の福山や尾道へその養殖の中心が移っている。 こうして漁場が失われた沿岸部のカキ養殖業者は、能美島・倉橋島など戦前は呉鎮の水域であったため養殖場としては未開発であった江田島や呉周辺の島嶼部に次々と進出することになる。江田島湾では1950年代後半から、現在の東端にあたる三津湾では1960年代から、カキ養殖が本格化していった。広島県におけるカキ筏台数は1950年代後半から1960年代前半にかけて2倍以上に増加した。1960年(昭和35年)頃から機械化がすすみ、例えば収穫時にウインチが導入された。広島市における筏式の収穫量は1954年(昭和29年)時点での総収穫量の60%だったものが1961年(昭和36年)には98%に達し、逆に同期間の筏式以外の養殖法による収穫量は一気に減っている。 むき身カキ生産量(t)広島宮城岩手全国1955年(昭和30年) 5,021 2,584 1,200 14,423 1956年(昭和31年) 7,406 3,368 1,271 16,725 1957年(昭和32年) 9,439 4,163 1,695 18,649 1958年(昭和33年) 9,699 3,570 1,642 20,051 1959年(昭和34年) 13,783 4,208 1,695 24,555 1960年(昭和35年) 16,753 3,717 1,025 25,977 1961年(昭和36年) 12,444 4,248 1,475 23,252 1962年(昭和37年) 17,370 4,778 1,747 30,075 左に、農林省『漁業養殖漁獲統計表』によるむき身カキの全国と主要産地の推移を示す。全国的に伸びているが特に広島の伸び率が顕著であることがわかる。広島ではここから更に伸び、1968年(昭和48年)にむき身で3万トンを超えた。それ以前、広島カキは主に大阪市場を中心とした関西地方で流通し、関東東京市場は東北地方三陸ものが流通していたが、広島ものの生産量増大に伴い東京への出荷量が急速に増え東京でも主役的位置にまでなった。 ただ1970年代まで生産量は安定しなかった。大量斃死に耐える採苗抑制・連の深吊りや季節に合わせて筏を移動させることなど技術改良が進んだことによって、1980年代以降安定して生産できるようになる。1980年代はむき身で3万トンを維持していたが、1990年代に入ると減少傾向に入ることになる。
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