第6の哨戒 1943年3月 - 4月・喪失
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「グレナディアー (SS-210)」の記事における「第6の哨戒 1943年3月 - 4月・喪失」の解説
3月20日、グレナディアーは6回目の哨戒でマラッカ海峡方面に向かった。マレー半島西岸及びタイの沿岸を偵察し、グレナディアーは4月6日、プーケット島沖で貨物船を発見し攻撃し、うち1隻に命中弾を与えて海岸に座礁させたと判断した。4月20日の夜にも2隻の艦影を発見、攻撃のため接近するが途中で見失い、翌21日朝再び発見した。グレナディアーは攻撃準備にとりかかったが、この時、付近を船団護衛中の特設砲艦江祥丸(名村汽船、1,365トン)がグレナディアーを発見した。また、第九三六航空隊の艦上攻撃機もグレナディアーを発見し急接近してきた。江祥丸はグレナディアーを追跡したが見失ない、艦上攻撃機はグレナディアーに250キロ対潜爆弾を投下した。グレナディアーも急速潜航を行い、グレナディアーのフィッツジェラルド艦長は「ここは120から130フィートの距離があるので安全だ」と説明したが、ちょうどそのとき爆弾が炸裂。グレナディアーは振動して15度から20度傾いた。動力と照明は完全に停止し、82メートルの海底に沈座した。操舵室では火災が発生した一方、乗員は必死に修理を試みた。 海底で13時間が過ぎ、何名かの乗組員が倒れるに及んで浮上を決意。21日の夕刻にグレナディアーは浮上、どうにか修理は一応成功したが推進システムの損害は完全には回復不能であった。艦の放棄とジャングルへの脱出ができるようにするため、グレナディアーのフィッツジェラルド艦長は艦に帆を付けて海岸に近づこうとした。しかしながら夜通し行われた作業は、結果論としては無意味であった。翌4月22日夜明け、グレナディアーの疲れ果てた乗組員は2隻の日本軍艦艇が接近するのを発見した。9時5分、第九三六航空隊の1機がグレナディアーを発見した。フィッツジェラルド艦長は「動力無しで280フィートの水中に潜行停止するのは望ましくない」として、乗組員は艦を放棄するため機密文書を焼却し始めた。日本軍機はグレナディアーへの攻撃を続けたが、グレナディアーも機銃で応戦し日本軍機が二度目の通過をした際に命中弾を与えた。被弾した日本軍機は離脱したが、入れ替わるように特設捕獲網艇長江丸(三光汽船。889トン)が接近、瀕死のグレナディアーに対して砲撃を開始した。ここに至ってグレナディアーのフィッツジェラルド艦長は観念して白旗を掲揚して降伏し、乗組員は艦を放棄するため全ての排水孔を開放した。艦は沈み、8名の士官と68名の乗組員は全て日本軍の捕虜となった。なお、4月6日に攻撃した貨物船と、最後の戦いで交戦した日本軍機はそれぞれ「撃沈」および「撃墜」と認定された。 彼らは4月23日にペナンへ連行され、詰問、殴打された。彼らは別々の収容所に収監され、マレー半島に沿って移動された後、海軍徴傭船浅間丸(日本郵船、16,975トン)などで最終的に日本本土へ連行され、大船収容所や福岡、善通寺などの収容所に放り込まれた他、一部は足尾銅山での使役にこき使われた。グレナディアーの最後に関する情報は、1943年11月27日にオーストラリアに到達した。非人道的な扱いにもかかわらず、グレナディアーの乗組員は福岡の収容所で獄死した4名を除いた、フィッツジェラルド艦長を含む残り全員が2年間の収容所生活を生き残り、終戦後の1945年9月4日に解放されて9月12日にグアムに到着した。 グレナディアーは第二次世界大戦の戦功で4個の従軍星章を受章した。また、グレナディアーを降伏させた長江丸は1944年2月13日、ペナン島ムカ岬沖合42km地点でイギリス海軍の潜水艦ストーンヘンジの雷撃で撃沈された。 グレナディアーの記念碑がニューヨーク州バッファローのバッファロー・エリー郡ネーバル・アンド・ミリタリーパーク(英語版)の一角に展示されている。
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