第6の哨戒 1943年9月 - 11月
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「シャード (潜水艦)」の記事における「第6の哨戒 1943年9月 - 11月」の解説
9月28日、シャードは6回目の哨戒で東シナ海および黄海方面へ向かった。この哨戒はアメリカにおいてウルフパックが実戦に投入された最初だった。ウルフパックはシャード、セロ (USS Cero, SS-225) 、および グレイバック (USS Grayback, SS-208) から構成され、セロに座乗したチャールズ・モンセン(英語版)司令の指揮を受けた。ウルフパックは10月12日にセロが特務艦間宮を撃破したが、シャードも同日に北緯28度30分 東経137度17分 / 北緯28.500度 東経137.283度 / 28.500; 137.283の地点でセロとともに輸送船団を発見して魚雷を3本発射したが、命中しなかった。10月14日にはグレイバックがサ13船団に対して攻撃を行い、特設運送船(応急タンカー)高瑞丸(高千穂商船、7,072トン)を撃沈していた。10月21日深夜、シャードは北緯29度10分 東経123度58分 / 北緯29.167度 東経123.967度 / 29.167; 123.967の上海沖で2隻の巡洋艦と3隻の護衛艦と目された船団を発見した。この船団は上海からラバウルに陸軍兵士を輸送する丁四号輸送部隊の軽巡洋艦那珂と五十鈴、特設運送船護国丸(大阪商船、10,438トン)と清澄丸(国際汽船、8,613トン)、駆逐艦山雲であった。10月22日2時13分、北緯28度40分 東経124度07分 / 北緯28.667度 東経124.117度 / 28.667; 124.117の地点に至ったシャードは主に那珂に向けて艦首と艦尾の全ての発射管から計10本もの魚雷を発射したが、山雲の爆雷攻撃を受け回避のためにやむを得ず、より深く潜航せざるを得なかった。那珂は発射された魚雷を1本目は回避したが、2本目が右舷側の艦橋横に命中したものの、命中角度が鋭すぎたため信管が作動せず船体がへこんだだけだった。しかし、シャードは「魚雷を発射して、何本かは巡洋艦に命中した」と報告した。10月27日未明、シャードとグレイバックは北緯28度25分 東経130度02分 / 北緯28.417度 東経130.033度 / 28.417; 130.033の奄美大島曽津高崎灯台西方海域でマ08船団を発見。船団には駆逐艦汐風が護衛についていた。0時27分、シャードは船団中の貨客船賀茂丸(日本郵船、8,524トン)に対して魚雷を3本発射し、そのうちの魚雷1本が命中した賀茂丸は航行不能ののち、沈没を防ぐべく応急修理の上、22時30分ごろに修理のため奄美大島久慈湾に座礁した。その賀茂丸を救助するため近寄ってきた貨客船富士丸(日本郵船、9,138トン)に6時20分ごろ、グレイバックが魚雷を命中させて富士丸を撃沈。残る貨客船鴨緑丸(大阪商船、7,362トン)は富士丸遭難者の救助を行ったのち一旦避退したものの、進路を戻して航行中の12時25分にグレイバックの射程内に入り、魚雷1本が命中したが不発に終わった。11月25日、シャードは58日間の行動を終えて真珠湾に帰投。サンフランシスコに回航され、ベスレヘム・スチールでオーバーホールに入った。オーバーホールの間に、艦長がローレンス・V・ユーリン少佐(アナポリス1937年組)に代わった。オーバーホール終了後、シャードは1944年5月11日に真珠湾に戻ってきた。
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