第6の哨戒 1944年7月 - 9月・対馬丸
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「ボーフィン (潜水艦)」の記事における「第6の哨戒 1944年7月 - 9月・対馬丸」の解説
「対馬丸#「対馬丸事件」」も参照 7月16日、ボーフィンは6回目の哨戒で南西諸島方面に向かった。8月9日まではどんな目標にも遭遇しなかったが、その8月9日に南大東島に向かう4隻の船を発見。ボーフィンは4隻が係留した直後に魚雷を6本発射、機帆船静洋丸(不詳)と報国丸(不詳)を撃沈した。その他の魚雷は、その爆発でバスを海中に吹き飛ばしたかのように見え、別の魚雷は岸壁に命中して爆発した。8月19日には、沖縄島北西で609船団に接触し、浮上攻撃を試みたものの逃げられた。この609船団の顔ぶれは対馬丸(日本郵船、6,754トン)、和浦丸(三菱汽船、6,804トン)、暁空丸(拿捕船、6,854トン)と砲艦宇治、駆逐艦蓮、梅であった。609船団は第62師団を沖縄に輸送し、梅以外の5隻はナモ103船団として2日後の8月21日18時35分に那覇を出航した。対馬丸には児童787人を含む、疎開する民間人1,484人が乗船した。この前後、ボーフィンは久米島北方海域を浮上して哨戒していた。 8月22日4時10分、ボーフィンはレーダーで5つの目標を探知し、やがて目標は輸送船団(ナモ103船団)であることを視認した。ナモ103船団は哨戒機2機の護衛がついており、ボーフィンは哨戒機を避けるべく潜航。観察を続けるとジャミングを行っていることがわかり、ボーフィンは重要船団と判断。コーブス艦長は夜間攻撃を指示した。10時34分に浮上し、再びレーダーでナモ103船団との程よい距離を保ち、哨戒機が攻撃のために接近しないのを不審に思いながら追跡を続けた。日没前後、ボーフィンは諏訪瀬島近海にナモ103船団が近づいたときに攻撃すべく、全速でナモ103船団を追い越して待ち伏せることとなった。20時53分、ボーフィンは左舷前方に諏訪瀬島、右舷前方に悪石島、後方に平島を配する地点に到着。コーブス艦長は戦闘配置を令し、やがて二列縦陣で航行中のナモ103船団を確認。コーブス艦長は、まず艦首発射管からの魚雷でボーフィンに近い3つの目標(対馬丸、暁空丸、蓮)を倒し、急旋回したのち艦尾発射管からの魚雷で残りの目標(和浦丸、宇治)を倒す計画を立てた。 22時9分、ボーフィンは浮上のまま艦首発射管から魚雷を発射。魚雷は全て狙った目標に命中したように思え、対馬丸には4番目と5番目の魚雷が命中したと考えられた。ボーフィンは予定通り急旋回し、艦尾発射管から魚雷を発射。この魚雷は宇治を粉砕したと考えられた。ボーフィンは魚雷の次発装てんのため西方に移動した。ナモ103船団の方に視線を移すと、対馬丸は船尾から沈んでいくのが見えた。22時21分、ボーフィンは対馬丸の沈没を確認し、ボイラーの爆発音と思われる重い音を聴取した。ボーフィンはこの攻撃で対馬丸を含む4隻を撃沈、破壊したものと考えていた。 8月28日、ボーフィンは北緯25度56分 東経128度54分 / 北緯25.933度 東経128.900度 / 25.933; 128.900の地点で漁船を発見し、4インチ砲で炎上させた。9月4日にも北緯31度54分 東経152度05分 / 北緯31.900度 東経152.083度 / 31.900; 152.083の地点で海上トラックを発見し、砲撃で破壊した。両方の戦闘に於いて、止めとして最後に残っていた魚雷を、それぞれ3本と4本発射したが、これは無駄撃ちに終わった。ボーフィンは帰途、ミッドウェー島に寄港した。9月13日、ボーフィンは59日間の行動を終えて真珠湾に帰投。西海岸に回航されて9月21日にサンフランシスコに到着。メア・アイランド海軍造船所でオーバーホールに入った。また、艦長がアレクサンダー・K・タイリー(アナポリス1936年組)に代わった。オーバーホールを終えたボーフィンは、12月16日に真珠湾に向かった。
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